はじめに――釣りが大好きなカエルの災難
雨の日に外へ出るのが楽しくて仕方ないカエル、ジェレミー・フィッシャー。池のほとりに暮らす彼は、友達を夕食に招くため魚を釣ろうと考えます。しかし、釣れたのは食べたかった小魚ではなく、針だらけの魚。さらに大きなマスまで現れるという思いがけない一日になります。
ビアトリクス・ポターの『かえるのジェレミー・フィッシャー』は、かわいい動物たちの暮らしと、自然の中で遭遇する危険をユーモアたっぷりに描いた童話です。釣りがうまくいったお話だと思って読むと、結末に驚くかもしれません。
この記事では1906年刊行の英語原作『The Tale of Mr. Jeremy Fisher』を直接確認し、米国議会図書館の刊本情報と照合しました。釣り道具、恐ろしいマス、無事に帰った後の夕食まで、原文に沿って独自の日本語で紹介します。
1906年の原題と、今回参照した原文
原題は『The Tale of Mr. Jeremy Fisher』、作者はビアトリクス・ポターです。Frederick Warne & Co.から1906年に刊行された作品であり、1903年の『りすのナトキン』や1905年の『ティギーおばさん』と同じ作者による一冊です。
Project Gutenbergに収められた英語本文の標題頁には、1906年の著作権表示があります。米国議会図書館の児童書コレクションにも1906年のニューヨーク刊本が掲載されています。電子書籍の公開年を物語の初出年と取り違えないようにします。
日本語の書名には「かえるのジェレミー・フィッシャー」「ジェレミー・フィッシャーどん」などの表記があります。本記事が扱うのは英語原作で、現代日本語訳の言い回しや挿絵を転載せず、登場人物と出来事を原文から整理しています。
雨の日、ジェレミーはなぜ釣りに出たのか
ジェレミーの家は池のほとりのキンポウゲの中にあり、台所の奥までしめっています。しかし、カエルの彼は足がぬれても平気。雨が池に大粒のしずくを落とすのを見て喜びます。人なら困りそうな湿った家も、カエルには心地よい住まいなのです。
彼は夕食のために小魚のミノーを釣りたいと考え、五匹より多く釣れたら友達を招くつもりでいます。招こうとしていたのは、カメのプトレミー氏と、イモリを連想させる名前のアイザック・ニュートン卿です。二人の客を思い浮かべることが、今回の釣りの動機になっています。
雨具のマッキントッシュとぴかぴかの長靴を身に着け、釣りざおと籠を持って出発しました。身支度の丁寧さと、自然の中にある予想外の危険との落差が、この後の出来事を引き立てます。
スイレンの葉の舟と、手作りの釣り道具
ジェレミーの舟は丸くて緑色で、池のスイレンの葉によく似ています。水草につないであった舟を葦の棒で押し、魚がいそうな場所へ進みます。人間の舟や釣り道具が、カエルの大きさに合わせて作り替えられたような世界です。
釣りざおには丈夫な草の茎、釣り糸には細長い白い馬の毛を使います。小さな赤い浮きを取り付け、針には動くミミズを付けました。具体的な道具の描写があるので、空想上の釣りでも手順が想像しやすいのです。
雨が背中に伝うなか、彼は一時間近く浮きを眺めていました。しかし魚は釣れません。釣りに出たからといって、計画どおりに獲物が見つかるわけではないという現実味も、この静かな場面にはあります。
昼食のサンドイッチと、池に潜む気配
待ちくたびれたジェレミーは、水草の間へ舟を戻して昼食を取ることにしました。食べるのは蝶のサンドイッチです。人間には不思議な献立でも、カエルたちの世界では自然に描かれるところに、ポターらしいユーモアがあります。
すると大きな水生甲虫が舟の下から現れ、長靴のつま先をつつきます。ジェレミーは足を引っ込め、食事を続けますが、池の縁の葦の間で何かが動く音もします。のどかな釣りの時間が、少しずつ落ち着かないものへ変わっていくのです。
彼はその物音がネズミではないかと心配し、場所を移すことにしました。カエルのジェレミーは、魚を捕る側であると同時に、自分も別の動物に狙われ得る存在として描かれています。
釣れたのはミノーではなくトゲウオだった
再び浮きを下ろすと、今度はすぐに当たりがありました。ジェレミーは喜んで釣りざおを上げますが、引き上げたのは目的のミノーではありません。針のようなとげを持つトゲウオのジャック・シャープだったのです。
トゲウオは舟の中で暴れ、とげや口でジェレミーを困らせた末、水へ飛び戻ってしまいます。ジェレミーの指は痛み、せっかくの獲物も逃げました。「釣れた」という成功の直後に「食べられないし危ない」という失敗が続くところが可笑しくもあります。
周囲の小魚たちが水面から顔を出し、ジェレミーを笑っている様子も描かれます。釣りをしていた側が、今度は池の住人たちの見世物になるという逆転が、次の大きな事件への前触れになります。
大きなマスに捕まったジェレミーはどうなるのか
指をなめながら舟の端で落ち込んでいると、突然、巨大なマスが水面から飛び出しました。魚を食べようとしていたジェレミーが、今度は自分を食べようとする相手に捕まってしまうのです。
マスはジェレミーを口でくわえ、池の底へ潜りました。しかし、身に着けていたマッキントッシュの雨具の味が気に入らず、すぐに吐き出します。食べられずに済んだのは、勇敢にマスを倒したからではなく、雨具がまずかったからでした。
マスが飲み込んだのはジェレミーの長靴だけです。本人は泡とともに水面へ浮かび、必死で岸へ泳ぎ着きました。原作の結末は「マスに食べられて終わり」ではありません。雨具はぼろぼろになりましたが、命は助かったのです。
釣りを諦めた後、友達との夕食はどうなったか
岸へ着いたジェレミーは、釣りざおも籠も失ったまま草原を跳ねて帰りました。もう二度と釣りに行く気にはなれないだろうと話しています。危険な経験をした本人にとって、釣りはもはや楽しい遊びだけではなくなったのです。
ところが、友達二人は約束どおり夕食にやってきます。ジェレミーは指にばんそうこうを貼り、魚の代わりに家の食料庫にあったものを出しました。カメのプトレミー氏は自分でサラダを持参します。予定した魚料理は失敗しても、友人たちとの食事まで取りやめにはしなかったのです。
最後の料理は、焼いたバッタにテントウムシのソースを添えたもの。カエルにはごちそうらしいものの、語り手はおいしそうに思えないと締めくくります。魚を一匹も捕れなかったのに、にぎやかな夕食で終わるという意外な結末です。
小さな動物の視点から、ほかの作品と比べる
同じ作者の『りすのナトキン』1903年原作の解説でも、小動物が自分より強い相手に危険を感じる出来事が描かれます。しかし、ナトキンは相手を繰り返し挑発し、ジェレミーは夕食のために魚を釣ろうとしただけです。危機のきっかけが違うため、同じ教訓にまとめるのは適切ではありません。
また、『ティギーおばさん』1905年原作の解説では、小さな洗濯屋の仕事から、動物たちの暮らしの細部が見えてきます。日常の道具や衣服を動物たちの大きさへ置き換える描写は、ジェレミーの舟や雨具にも通じています。
ポターの物語は、動物をかわいく描くだけではありません。食べる側と食べられる側が入れ替わる自然の怖さも、しばしば顔を見せます。愛らしい道具立てと、決して安全ではない世界の対比が、原作を読み直す楽しさの一つです。
まとめ――釣りの失敗で失わなかったもの
『かえるのジェレミー・フィッシャー』の1906年原作で、ジェレミーはミノーを一匹も釣れず、トゲウオに指を刺され、巨大なマスからかろうじて逃げ帰ります。釣り道具も長靴も失い、散々な一日でした。
物語の内容は1906年刊行の英語原作本文で確認し、同年の刊本情報は米国議会図書館とモーガン図書館の所蔵資料で照合しました。ポターは1943年没で、文化庁の保護期間の説明も確認しています。現代の日本語訳・挿絵・写真は転載していません。
何もかも計画どおりには進まなくても、大切な人と食卓を囲めることはあります。もっとも、これは「失敗すれば必ずよいことがある」という約束ではありません。うまくいかなかった一日を、ユーモアのある別の結末で閉じるところが、この小さな童話の魅力でしょう。