はじめに|三つの願いで、なぜソーセージが現れるのか
もし願いが三つだけかなうとしたら、何を望むだろう。大きな家、自由な時間、お金、健康。誰でも少しは考えてしまうはずだ。ところが、シャルル・ペローの作品『Les Souhaits ridicules』(滑稽な願い)では、一つ目の願いが食べ物、二つ目が思いがけない災難、三つ目が元に戻すことに使われてしまう。
主人公は貧しい木こりとその妻だ。神話の神ユピテルが現れ、三つの望みを聞き入れようと約束する。夫婦は慎重に考えるつもりだったが、日常の何気ない言葉が願いとして実現してしまった。望みを持つことと、何を本当に大切にしたいかを見極めることは別なのである。
この記事では、ペロー作品のフランス語本文を収録した1902年編集版『Les Contes de Perrault』の60〜63ページを直接確認し、あらすじと結末を整理する。初出とされる1693年の雑誌原本を実見したわけではないため、今回読んだ版と作品史の情報を分けて説明する。
原作のあらすじ|ユピテルが三つの願いを与える
物語の冒頭に登場するのは、日々の暮らしに疲れた貧しい木こりブレーズだ。彼は自分の人生で望みがかなったことなどないと嘆く。そこへ雷を手にしたユピテルが現れ、どんなことでも最初の三つの願いをかなえると約束する。苦労してきた木こりには、人生を変えるような機会が訪れた。
木こりは急いで願いを使わず、家へ戻って妻のファンションに相談する。妻は軽々しく決めないよう勧め、二人は翌日までよく考えることにした。慎重であること自体は悪くない。問題は、考えた末に願いを決める前に、口から別の言葉が出てしまったことだった。
暖炉の前でくつろいだ木こりは、こんな時に長いソーセージがあったらよいのに、と口にする。すると本当に長いソーセージが現れた。三つのうち、最初の願いが使われてしまったのである。人生を変えるほど大きな力が、目先の食欲に反応してしまうところに、この童話の笑いがある。
二つ目の願い|ソーセージが妻の鼻につく
夫の失敗を知った妻は、城や財宝だって望めたのに、と怒る。木こりは次は間違えないと言うが、言い争いの中で、あのソーセージがお前の鼻につけばよい、と口にしてしまう。怒りに任せた言葉が、二つ目の願いとして実現する。
長いソーセージは妻の鼻にくっつき、簡単には取れない。さっきまで食べ物だったものが、今度は夫婦の大きな悩みになった。ここで重要なのは、神が新たな意地悪を考えたわけではなく、本人がよく考えずに言った言葉がそのまま現実になったという仕掛けである。
現代の読者は、妻の姿をからかう描写に違和感を持つかもしれない。17世紀の滑稽詩には男女の口げんかを笑いの材料にする表現があり、その時代の価値観は今と同じではない。相手の見た目を笑うことを生活上の教訓として勧める必要はない。物語の構造として、言葉の軽さが招いた結果に注目したい。
三つ目の願いと結末|王になるより元の暮らし
残った願いはあと一つ。木こりは、それを使えば自分は王になれるかもしれないと考える。しかし、妻の鼻についたソーセージをそのままにして王宮で暮らすのかという問題がある。大きな利益を得る願いと、今目の前にある問題を取り除く願いが衝突するのだ。
木こりは妻に相談し、裕福で高い身分になることと、元の顔に戻ることのどちらを望むかを尋ねる。妻は後者を選び、三つ目の願いでソーセージは鼻からなくなる。夫婦は王にも金持ちにもならず、最初と変わらない暮らしへ戻る。これが作品の結末である。
三つの願いをすべて使ったのに、何も得られなかったようにも見える。ただし、妻の困りごとを解消するために最後の望みを使った点まで無視する必要はない。何を選ぶかという判断には、豊かさだけでなく身近な人の生活も関わる。作品の笑いと、その奥にある選択の難しさを合わせて読みたい。
「三つの願い」の教訓を今の生活で考える
大きな力が手に入ると、人は壮大な夢を語りたくなる。しかし、普段の習慣や感情が変わるとは限らない。木こりは三つの望みを慎重に使おうとしたにもかかわらず、空腹と怒りによって機会を失った。目的を明確にしておくことは、思わぬ場面で判断を間違えないための準備になる。
仕事で新しい予算や時間が得られたときも、最初の思いつきにすべてを使うより、何を優先すべきかを考えたい。もっとも、欲しいものを厳密に考えることだけが正しいわけではない。日々の小さな楽しみも大切だ。問題は、些細な楽しみを選んだことより、選択が取り消せないと知らずに使ったことにある。
また、怒りの勢いで言った一言は、後から取り消せない場合もある。もちろん実際の生活では、発言が魔法のように現実になるわけではない。それでも言葉が人間関係に影響することはある。何を口にするかを選ぶことと、失敗した後にどう責任を取るかを考えるきっかけになる。
ペローの版と、似た三つの願いの物語
『Les Souhaits ridicules』は、ペローの名で伝わる韻文の童話である。書誌研究では1693年の雑誌『Mercure galant』に発表された作品とされ、その後も複数の版で読まれてきた。今回直接確認した本文は1902年の編集版であり、1693年の雑誌紙面との逐語一致を認定したわけではない。
願いを三つ与えられ、軽率な言葉によって失うという話の型は、ほかの昔話にも見られる。ただし、それだけで、ある一作品が別の作品をそのまま真似たと断定することはできない。口承、翻案、翻訳、再話では細部が変わるからだ。共通する物語の型と、各作品の具体的な文章は分けて考える必要がある。
童話を読むときは、いつの版を使ったかと、現代語訳に独自の脚色があるかを確認したい。たとえば当サイトのグリム版とペロー版の『親指小僧』の比較記事も、似た題名の作品を一つにまとめないための例である。短い話ほど、版の違いによって教訓が変わることがある。
まとめ|三つの願いが教える「何を望むか」
ペロー『三つの願い(滑稽な願い)』では、木こりが一つ目にソーセージを望み、怒った勢いで二つ目を使い、最後の一つで妻の鼻を元に戻す。手にした大きな機会が、何気ない言葉の連続で消えてしまうという滑稽さが作品の中心にある。
この話を読むと、望みがかなうことだけで幸福が決まるわけではないと気づく。何が必要かを考えること、急いで決めないこと、そして大切な人と相談することも関わる。魔法がない世界でも、選択の優先順位を間違えることはある。だからこそ長く読まれてきたのだろう。
主要出典:Charles Perrault, 『Les Souhaits ridicules』, Pierre Féron編『Les Contes de Perrault』, Casterman, 1902, pp.60–63。フランス語の1902年編集版本文を直接読んだ。作品の初出は1693年とされるが当該雑誌原本の紙面照合は未実施。ペローの原作は著作権保護期間満了であり、現代日本語訳・挿絵は別権利として扱い、転載せず独自要約で構成した。