阪田知樹「演奏と作曲は切り離されたものではありません」の意味と出典|楽譜を読む視点と創作のつながり

演奏と作曲は切り離されたものではない、という一節

ピアニストの阪田知樹は、演奏に加えて作曲や指揮にも活動を広げる理由を尋ねられ、「演奏と作曲は切り離されたものではありません」と語った。演奏家と作曲家を別々の職業として整理するよりも、一つの楽曲を理解し、音にする営みとして両者を見ていることが伝わる言葉だ。

音楽を聴く側には、作曲された譜面が先にあり、その後に演奏家が音にするという順序が見えやすい。しかし演奏家は、音を出す前に曲の構造や響きの流れを読み、何を際立たせるか選ばなければならない。譜面に書かれた音を追うことと、なぜその音がそこにあるのか考えることはつながっている。

阪田が強調しているのは、演奏と作曲のどちらかが他方より優れているという主張ではない。作曲も演奏も、音楽を理解し表すために自分の中で連続しているという個人的な実感である。二つの活動を結び付けるのは肩書ではなく、作品へ向ける視点だと読める。

だからといって、すべての演奏家が作曲しなければならないという意味にもならない。演奏に専念して深められる仕事は大きく、作曲家が必ずしも演奏活動を行うわけでもない。阪田の言葉は、専門性を否定する標語ではなく、彼自身の創作観を示したものとして受け止めたい。

原典|ジャパン・アーツの2026年6月5日付インタビュー

原典はジャパン・アーツが2026年6月5日に公開した「阪田知樹に聞く インタビュー② ~今後の音楽家像~」である。「“コンプリート・ミュージシャン”という理想」の節に、本人の発言として「もともと自分の中では、演奏と作曲は切り離されたものではありません」と掲載されている。媒体、日付、話者、見出し、文言を確認できる。

この発言に続けて阪田は、ピアノのスコアを読むときにも構造や響きの関係を自然に考え、それが演奏へ影響していると思う、と説明する。二つの活動が結び付く具体的な場面として、楽譜を読み解く時間を挙げていることが重要だ。

同じ取材では、パウル・バドゥラ=スコダやタマーシュ・ヴァーシャリのもとで学んだ経験にも触れている。師弟関係やフランツ・リストの系譜に関する話が続くが、今回の一節を理解するうえで中心になるのは本人が語る演奏と作曲の関係である。経歴そのものの紹介へ広げすぎず、言葉の前後から考える。

この資料は本人への公開インタビューを編集して掲載した文章であり、未編集録音を独自に照合したものではない。また掲載時点の予定を、すべて実施済みの事実と取り違えてはいけない。確認できた発言、編集者による説明、今後の活動予定を区別する必要がある。

楽譜を読むことと、響きを構想すること

楽譜には音高やリズム、強弱など多くの情報が書かれている。しかし複数の音の関係をどう聞かせるかは、演奏者の判断を必要とする。旋律と伴奏の距離感、和声の変化、音が消えるまでの時間を考えることも、その一部だ。記号を音へ変える作業には、全体の形をつかむ思考が含まれている。

阪田の発言からは、作曲を特別な才能の発揮としてだけ捉えず、曲を分析して理解する日常的な行為と連続させる考え方が見える。演奏中にどの声部を前に出すか考えることは、作曲家が音の関係を組み立てる視点と接している。作品の仕組みを聴き取ることが、自分の演奏の選択肢を増やす。

ただし、楽譜を深く分析すれば唯一の正解の演奏に到達するというわけではない。同じ楽曲であっても、会場の響き、楽器、共演者によって選択は変わる。構造を理解することは自由を奪うのでなく、何を変えられるかを知るための土台とも考えられる。

演奏を聴く人にも、この視点は役立つ。目立つ旋律だけでなく、少し遅れて響く音や低音の動きに気づくと、同じ作品でも別の面が見えてくる。楽曲を一度で理解し切ったと思わず、音の関係を繰り返し発見する楽しみがある。

両立の難しさ|他人の作品から自分の音楽へ

インタビューで阪田は、演奏と作曲を自分の中で分けていない一方、両立が容易ではないことも率直に語っている。ピアニストとして他人の作品に取り組むと、その作曲家の音楽が頭の中で鳴り続け、自分の音楽が出てきにくいという。つながっている二つの活動だからこそ、気持ちの切り替えは難しい。

ここには時間管理だけでは解決しない問題がある。予定表の上で練習と作曲の時間を分けても、頭の中には直前まで扱っていた楽曲の響きが残る。阪田は、物理的な時間のやりくり以上に、その音楽からいったん離れる難しさを述べている。仕事の種類が変わることと、思考の状態を切り替えられることは同じではない。

創作する人が他者の作品から影響を受けるのは自然なことだ。ただ、学んだ表現をそのまま自分の作品へ移せば独自性が生まれるとも限らない。敬意をもって学ぶ時間と、自分の表現を見つける時間は両方必要なのだろう。

この話を、何も参考にせずに一から作るべきだという主張へ変える必要はない。阪田自身も多くの先人から学んできた。影響を受けることを否定せず、その影響と自分の着想の距離を測るという課題として読むのが自然だ。

コンプリート・ミュージシャンという理想

阪田は同じ取材で、作曲し、自分で演奏し、指揮もする音楽家のあり方を「コンプリート・ミュージシャン」と呼び、自らもそこへ向かいたいと語った。フランツ・リストをその一例に挙げている。活動領域をただ増やすのではなく、音楽を複数の立場から担いたいという理想が見える。

とはいえ、昔の音楽家が全員同じように活動していたと一般化することはできない。歴史上の演奏・作曲・指揮の役割は時代と場所によって異なる。この発言で確認できるのは、阪田が理想像をどう説明したかということである。本人の価値観と、音楽史全体についての実証的な結論を混同しない。

彼はまた、その理想を自分へ無理に課しているというより、自然に向かっている感覚だと述べた。肩書を集めなければ一人前ではないという義務感ではなく、関心が広がった先に活動が増えているという説明だ。自分にとって必要な領域を、内側の問いから増やしていくことの意味を考えさせる。

目標の大きさだけでなく、それに向かう速度にも人それぞれの違いがある。音楽家が何を引き受けるかは、作品、能力、協働相手、生活との関係で決まる。理想を掲げることと、今ある役割を丁寧に果たすことは対立しない。

創作と実践の往復が教えること

この言葉を音楽以外へ広げるなら、考えることと実際に試すことの往復に注目できる。文章を書く人は他人の文章を読み、作り手として構成を考え、自分で書いて読み直す。受け手の視点と作り手の視点を行き来することで、見えなかった構造に気づくことがある。

ただし、複数の役割を同時に持つほど優れた仕事ができると単純に言い切るのは危うい。細部へ集中するために役割を絞る判断もあり、共同制作では別々の専門家が協力することもある。役割の数ではなく、それぞれの視点がどんな判断に役立つかが重要だ。

音楽の着想を「温かくて冷めないうちに残す」と表した石若駿の言葉と比べると、阪田は楽曲を読み解く視点と作り出す視点の連続性を語っている。着想を捉える瞬間と、音楽の構造を理解する営みを並べると、創作の異なる時間が見える。

また、辻彩奈「自分が出す音にこだわりたい」は、演奏という現場で自分の音を確かめる判断に焦点を当てている。阪田の一節は、その背後で作曲と演奏がどうつながっているかという問いを開く。同じ音楽でも、何を大切にして語るかによって理解の入口は変わる。

「演奏と作曲は切り離されたものではありません」は、2026年のジャパン・アーツ掲載インタビューに確認できる一節である。異なる仕事の境目を越え、作品の構造を考えながら自分の音を形にするという本人の歩みを、ひとつの言葉から読み直せる。

ほかの記事を探す

記事の訂正・出典情報は、お問い合わせから該当記事のURLと根拠資料をお知らせください。