「悪は人々を一致させる」。アリストテレスの名言として紹介される一文です。しかし「悪事をする人々が集団をつくる」という単純な意味で読むと、原典の内容を取り違えてしまいます。
この表現はアリストテレスの著作『弁論術』第1巻第6章、1362b末から1363aの付近に確認できます。そこでは、アリストテレス自身が作った独創的な一句としてではなく、すでにあることわざとして引かれています。 何が人を一つにするのか、本文の前後から考えてみましょう。
原典はアリストテレス『弁論術』第1巻第6章
『弁論術』第1巻第6章では、人が何を「善いもの・利益になるもの」とみなすかを論じています。一般に、自分の敵が望むことの反対が自分にとって利益になるように見える。しかし、それがいつも成り立つわけではない、とアリストテレスは注意します。
そのすぐ後に出てくるのが、英語では“evils draw men together”などと訳される句です。MITのInternet Classics Archive版は、同じものが双方に害を与えるときという説明を続けています。
原文では、ギリシャ語の τὰ κακὰ συνάγει τοὺς ἀνθρώπους がこの意味を担っています。ギリシャ語本文はギリシャ語研究機関によるオンライン資料で、1362bから1363aにかけて確認できます。
「悪が結束を生む」は、悪人同士の同盟の話だけではない
この文章が説明しているのは、ふだん敵対する二者にも、同じ不利益を避けたいという共通の利益が生じる場合があるということです。
例えば、競争する企業が共通の災害への対策では情報共有を必要とする、互いに対立する集団が公衆の安全に関わる問題では協力する、といった現代的な類比を考えることができます。
ただし、こうした例は当サイトによる説明であり、アリストテレス自身が企業や現代制度について語ったという意味ではありません。原文の核は「相手が敵だから、こちらも必ずその反対へ動く」という単純な判断が成り立たない場合を示す点にあります。
アリストテレスは「ことわざ」として引用している
原文には「だから、このように言われる」という紹介の形があります。したがって、アリストテレスの著書にある言葉だと示すことは正確でも、アリストテレスが最初に考案した格言だと確定することはできません。
ことわざの最初の作者や成立年代は、今回参照した『弁論術』の本文だけからは特定できません。確認できる古い記録と、言葉が最初に生まれた時点を混同しないことが大切です。
英語の evil も、悪い人間や道徳的な悪意だけを指す語だと決めつけるべきではありません。原典で関係するのは、双方にとって悪いもの、不利益となるものです。
「共通の敵」という言い換えはどこまで正確か
現代では「共通の敵ができれば人はまとまる」と表現されることがあります。重なる部分はありますが、古い本文は必ずしも具体的な「敵」を設定する話に限りません。
利益が一致しない者同士でも、ある状況で共通の損害を避けたいと思うことがあります。それは自然に永続的な友情が生まれるという意味でも、脅威があれば必ず団結できるという社会心理学的法則でもありません。
したがって、「悪を作れば人を動かせる」という操作の技法として、この一句を使うのも原典から飛躍しています。文脈にあるのは、利害に例外が生じるという論点です。
『弁論術』の全体の目的へ戻す
アリストテレスはここで道徳的な善悪の全体系を短い格言にまとめているのではなく、議論や説得で用いられる「何が利益に見えるか」を整理しています。
敵の願うことの反対が利益とは限らない。敵対者にも、同じ害を避けたい時がある。この限定条件に注目すると、短い言葉の意味が格段に正確になります。
読み手へ残る問い
目の前の相手と利害が対立しているとき、対立している部分だけを見ていないでしょうか。同じ問題から影響を受ける部分や、最低限守りたいものは存在しないでしょうか。
共通の不利益を確認することは、互いの意見をすべて一致させることとは違います。その違いを保ったまま協力の余地を探ることが、今日の問題を考えるときの一つの応用になるでしょう。
まとめ:悪そのものが人を結束させる、という断定ではない
「悪は人々を一致させる」はアリストテレス『弁論術』第1巻第6章に確認できる句です。しかし、アリストテレス自身はことわざとして引用しており、同じ害が双方へ及ぶとき、敵対者同士でも利害が一致することがあるという文脈に置かれています。
誰が最初に言ったかは未確定でも、どの作品にどんな意味で載っているかは調べられます。短い格言を読むときこそ、この二つを分けたいところです。
原典・参考資料
・ギリシャ語研究機関「アリストテレス『弁論術』1362b–1363b」:古代ギリシャ語本文。「だからと言われる」という引用の形式と、双方へ同じ害が及ぶという条件。
・MIT Internet Classics Archive『Rhetoric』Book I, Chapter 6:英語訳と直前・直後の議論。
・Stasis/Kairos『Rhetoric』Book I, Chapter 6:条件文を含む英語訳による比較。
出典状態:意訳・文言変化。 アリストテレス『弁論術』の掲載箇所は確認済みですが、原文ではことわざとして引かれており、作者が創作した独立の名言とは限りません。「悪」の意味も、道徳的な悪人同士の結束へ単純化することはできません。
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古典の出典を確かめる視点はアクィナスが引用したアリストテレスの愛の定義でも扱っています。名言・思想の入口、出典ステータスの読み方、監査索引も参照できます。