「どっちへ行きたいかわからなければ、どっちの道へ行ったって大した違いはない」という言葉は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるアリスとチェシャ猫の会話をもとにした日本語の流通表現です。
この言葉を「何が何でも目標を持たなければ人生は無意味」という教訓として読むのは、少し早計かもしれません。原文には、アリスが道を尋ねた理由と、その後の猫の返答が続いています。
原典は『不思議の国のアリス』第6章「Pig and Pepper」
1865年に初めて刊行されたLewis Carroll『Alice’s Adventures in Wonderland』第6章で、アリスは木の枝にいるチェシャ猫に、この先どちらへ行くべきかと尋ねます。
猫は、“That depends a good deal on where you want to get to” と返します。「それは、どこへ行きたいかによって大きく変わる」という趣旨です。
アリスが「行き先はあまり気にしていない」と言うと、猫は“Then it doesn’t matter which way you go” と続けます。つまり「それなら、どちらへ行くかは問題ではない」という応答です。
原文での発言者は作者キャロル本人ではなく、物語中のチェシャ猫です。日本語で一つの「名言」にまとめられた形は、この対話を短く言い換えたもので、作者が独立した格言として書いた一文ではありません。
実は、アリスは「どこかに着ければ」と続けている
この場面には大事な続きがあります。アリスは「どこかには到着したい」と説明し、猫は「十分長く歩けば、きっとそうなる」と応じます。
猫は無条件に「目標のない人間は失敗する」と説教しているわけではありません。行き先を指定しないまま「どちらへ行けばいいか」と問われても、判断の基準がない。そういう問いの前提のずれを、少しからかうように指摘しています。
さらに、猫が指した先には帽子屋と三月ウサギが暮らしています。猫は二人をどちらも「変わり者」と説明し、後にアリスはお茶会へ向かいます。道案内はこの不思議な世界の出来事の一部であり、現代の自己啓発講演の一場面ではありません。
目的と手段を入れ替えないために
とはいえ、この会話を仕事や人生の選択へ応用することはできます。例えば、新しい仕事を選ぶとき、条件だけを並べても、自分が何を増やしたいのかが違えば評価は変わります。
- 目的地:その選択で何を得たいのか。例:学ぶ機会、安定、社会への貢献、創作の時間。
- 道:その目的地へ向かう複数の手段。転職、学習、配置転換など。
- 確認:その道を進んだとき、目的に近づいたと判断する根拠は何か。
ただし、これは作品から着想を得た現代的な整理であって、キャロルの原文に三段階の意思決定法が書かれているわけではありません。目的を探しながら歩くことにも価値はあります。猫の返答は、目的が定まらない人間の生き方を否定する判決ではありません。
似ている格言と取り違えない
「どこへ行くか分からなければ、どの道でもそこへ行ける」といった英語の格言は、後世にさまざまな人物の名前で流通しました。例えばキッシンジャー名義の近い表現にも別の引用史があります。
キッシンジャー名義の類似表現と、その帰属の整理は、ここでのチェシャ猫の台詞そのものとは別に読む必要があります。単語が似ているからといって、後世の流通句までキャロルの原文へ遡れるとは限りません。
出典状態と日本語表現
判定:原作の会話は確認済み/流通する日本語の一文は会話の意訳・要約。 著者はルイス・キャロル、台詞の話者はチェシャ猫。出典は『不思議の国のアリス』第6章です。日本語文は本文に確認できる英語の単一文と完全に一対一対応する既存の正式訳とは扱いません。
どこかへ着くための進路を問うことと、行き先のない探索を楽しむこと。この二つを区別すると、猫の言葉が単なる目標設定の標語よりも豊かな会話に見えてきます。
原典・関連作品
- 『Alice’s Adventures in Wonderland』1866年版・第6章(Wikisource):チェシャ猫とアリスの対話を確認。
- Project Gutenberg『Alice’s Adventures in Wonderland』英語全文:第6章前後の物語を確認。
- 『不思議の国のアリス』作品ガイド:イモムシ、お茶会、裁判まで横断して作品を読む。
- 名言の出典ステータスの読み方 / 出典から名言を探す:原典確認と文言変化の違い。