一人ひとりは、自分にとって合理的な行動をしている。
それなのに、全員が同じように動くと、最後には全員が困る。
仕事でも社会でも、こういう問題があります。
誰か一人の性格が悪いからではありません。仕組みの中に、そう動きたくなる理由があることがあります。
それを考えるための古典的なモデルが、「コモンズの悲劇」です。
コモンズの悲劇とは何か
典型的な説明では、複数の人が利用できる牧草地を考えます。
一人の牧畜者にとっては、家畜をもう一頭増やせば、その利益の多くを自分が得られます。一方、過放牧による負担は利用者全体に広がります。
同じ誘因のもとで利用が増え続ければ、共有資源そのものが傷む可能性があります。
この牧草地の例は19世紀のWilliam Forster Lloydの議論にさかのぼり、1968年にGarrett Hardinが「The Tragedy of the Commons」という論文で広く知られる形にしました。
ポイントは、「人間は利己的だから駄目だ」という道徳の話だけではありません。
個人にとって合理的な選択と、全体にとって望ましい結果がずれることがある。
そこに、この概念の面白さがあります。
「みんなが少し頑張れば」は、仕組みになっていない
仕事でも似た構造を見ることがあります。
誰でも気軽に仕事を依頼できる。会議を入れられる。チャットで質問できる。共有資料を増やせる。
一つひとつは小さな負担です。
でも、全員が「これくらいなら」と共有された時間や注意力を使えば、集中する時間がなくなります。
そこで「各自が気をつけよう」と呼びかけるだけでは、構造は変わりません。
会議を入れる条件、問い合わせの窓口、優先順位、担当範囲など、個人の善意に頼らなくても回るルールが必要になることがあります。
以前、個人の根性で解決している問題には、構造の問題が隠れていると書きました。コモンズの悲劇は、その構造を見るための一つのレンズになります。
マーケティングでも「共有資源」はある
企業の中で、顧客との接点は一部門だけのものではありません。
営業はメールを送り、マーケティングはメルマガを送り、イベント担当は案内を送り、カスタマーサクセスも連絡する。
各部門にとっては、それぞれ合理的です。
でも顧客から見れば、一つの会社から大量の連絡が来ているだけかもしれません。
ここで共有されている資源は、顧客の時間・注意・信頼です。
部門ごとのKPIだけを最大化すると、会社全体では顧客体験を傷つけることがあります。
だから、ブランドやCXは一部門だけで完結しません。
AI時代には、「人間の注意」がさらに希少になる
生成AIによって、文章、画像、メール、資料をつくるコストは大きく下がりました。
つくる側から見れば便利です。
しかし、受け取る側の時間は増えません。
全員が大量に生成して送れば、情報の供給は増えても、人間が読むための注意力は奪い合いになります。
「つくれるから、つくる」ではなく、「相手の有限な注意を使う価値があるか」と考える。
このサイトで大量の記事を減らしている理由にも、少し似ています。
記事数を増やせても、読者の時間は増えません。
ただし、共有資源は必ず悲劇になるわけではない
ここが、この概念を使ううえで特に大切なところです。
「共有しているものは、結局みんなに食い潰される」と結論づける必要はありません。
Elinor Ostromらの研究は、現実の共同体がルールや監視、合意形成などを通じて共有資源を長期に管理している事例を研究し、「共有資源なら悲劇は不可避」という単純な見方に異議を唱えました。
つまり、問いは「共有か私有か」だけではありません。
どんなルールなら、共有しながら守れるのか。
ここまで考えて初めて、コモンズの悲劇は単なる悲観論ではなくなります。
人を責める前に、そう動きたくなる構造を見る
組織の問題を見るとき、私たちは人物の評価に寄りがちです。
あの人が協力的ではない。あの部署が自分勝手だ。顧客が分かっていない。
もちろん、本当に個人の問題である場合もあります。
でも、その人を別の人に入れ替えても同じ問題が繰り返されるなら、見るべきは人だけではないかもしれません。
評価制度はどうなっているか。負担と利益は誰に帰属するか。共有資源の利用ルールはあるか。長期的な損失を誰が見ているか。
「誰が悪いのか」から、「なぜ合理的に動くと、この結果になるのか」へ。
コモンズの悲劇は、人を裁くためではなく、問題の構造を見つけるために使うと面白い概念だと思います。
出典メモ:共有牧草地の古典的な例はWilliam Forster Lloydの1833年の講義にさかのぼり、Garrett Hardinが1968年のScience誌論文「The Tragedy of the Commons」で広く知られる形にしました。一方、Elinor Ostromの共有資源研究は、共用資源が必然的に「悲劇」へ至るという単純な一般化に異議を唱え、利用者自身による多様な統治の可能性を示しました。