「人生は将棋のようなものだ。自分の手中にあるのはチャンスではなく、駒の進め方だ」。ローマの劇作家プブリウス・テレンティウスに帰される言葉です。ところが、テレンティウスの戯曲に確認できるのは「人生はサイコロ遊びに似ている」という比喩であり、将棋やチェスではありません。後の哲学者ショーペンハウアーが、そのサイコロの一節を引用した直後にチェスを使った別の比喩を展開していることが、混同の有力な手掛かりになります。出典を分解して、何が実際に書かれているかを確認します。
テレンティウスの原典は戯曲『Adelphoe』(『兄弟』)
プブリウス・テレンティウス・アフェル(Publius Terentius Afer)は、紀元前2世紀のローマで活動した喜劇作家です。『Adelphoe』(『兄弟』)では、子育てについて考えの違う二人の兄弟、ミキオ(Micio)とデメア(Demea)を中心に、家族の出来事が描かれます。
問題の比喩は第4幕第7場、通し行番号739〜741にあります。原文は “Ita vita est hominum quasi quom ludas tesseris” と始まります。ここでの tesseris はサイコロを指す言葉で、日本の将棋盤やチェスの駒ではありません。
続く二行の意味は「必要な目が出なかったら、出た目を工夫して生かさなければならない」という趣旨です。当サイトの説明訳では「人生はサイコロ遊びに似ている。欲しかった目が出なかったなら、偶然出た目を技量で補って生かすべきだ」となります。
これが、古代の作品に実在する一節です。「将棋の駒をどう動かすか」という形の文章を、そのままテレンティウスの日本語訳と呼ぶのは正確ではありません。
台詞を語るのはデメアではなく、ミキオ
この台詞は、子どもを厳しく育てようとするデメアとの会話で、比較的寛容な考え方を持つミキオが語ります。デメアが起こった出来事に納得できず、どう思うかを尋ねたところ、ミキオは「変えられるなら違う形を望んだだろうが、変えられないのだから穏やかに受け止める」と答えて、このサイコロの比喩を続けます。
つまり、抽象的に努力を称賛する格言ではありません。すでに起きてしまった問題に、どう対処するかという家族の会話の中で出てきます。
この台詞のすぐ後にもデメアは納得しておらず、ミキオの態度へ批判的に応じます。喜劇の人物同士には異なる価値観があり、ミキオが語ったことを作者自身の完全な結論だと断定する必要はありません。
サイコロの「運」と、手元でできる「工夫」
サイコロを投げる前には、どの目が出るかを完全には選べません。出た目が望んだものでなくても、その後の遊び方には工夫の余地があるかもしれない。ここには結果の偶然性と、結果を受け取った後の人間の技量という二つの要素があります。
ただし、この比喩を「どんな不運も本人の工夫ですべて克服できる」と言い換えるのは行き過ぎです。古代の喜劇での人物の台詞が、現代のあらゆる生活問題に通じる保証を与えるものではありません。
与えられた状況を変えられないときでも、できることを見つけるという読み方はできます。一方で、周囲の環境そのものを改善することが必要な場合もあります。
ショーペンハウアーが付け加えたチェスの比喩
後世の哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは『Counsels and Maxims』(『処世訓』などと訳される著作)第4章「Worldly Fortune(世間の運)」第48節で、人生には偶然と本人の判断が入り交じると述べています。
同じ段落でショーペンハウアーは、まずテレンティウスのラテン語を引用し、その内容をサイコロ遊びとして紹介します。続いて、自分の説明のためにはチェスの比喩の方がふさわしいとして、相手の指し手次第で当初の計画を変更しなければならない、と論じます。
ここに「人生=チェス」「テレンティウス」という二つの話題が隣接しています。しかし、テレンティウスがもともとチェスに言及したという証明にはなりません。古代劇作家の原文と、19世紀哲学者による展開を分ける必要があります。
旧記事の「将棋」は、英語の chess を日本文化に合わせて言い換えた可能性がありますが、いつ誰がそう置き換えたかは未確認です。その変更過程を、証拠がないのに確定しません。
ショーペンハウアーは、単純な自己責任論を述べていたのか
『Counsels and Maxims』第48節は、偶然を強力な要因として説明しています。人生は、起きた出来事とそれに対する自分の決定が互いに影響しあい、一人で全部を作れるわけではない、と書いています。
だからこそ、人生の計画は遠くを見通して一直線に進むとは限らず、風や相手の動きに応じて航路を変える必要があると考えるのです。
もし「駒の進め方がすべてで、運は関係ない」と読んでしまえば、この文章がまさに強調している偶然の働きを削ってしまいます。偶然と選択の関係を正確に捉える点が、この比喩の中心です。
「チャンスを待つ」と「出た目を使う」
例えば、学びや仕事の機会が思いどおりに訪れない場合でも、いま手元にある資料、協力者、技能を確認することはできます。もう少し情報を得てから判断する、規模を小さくして試す、計画を改めるといった選択もあるでしょう。
一方、状況の不公正さや、本人の安全に関わる問題を、「あなたの努力次第」という言葉で覆い隠すべきではありません。サイコロ遊びの比喩を現代に使うなら、偶然や環境の影響も視野に入れて考えたいものです。
ここでの具体例は当サイトの応用です。テレンティウスが現代の人事制度や将棋の戦術を教えたという意味ではありません。
出典・確認範囲
【原著のラテン語・行番号】Perseus Digital Library『Adelphoe』第4幕第7場。第739〜741行のサイコロの比喩を校訂版・翻刻に基づいて確認するための本文導線です。
【古典の研究資料】Nathan A. Greenberg「Success and Failure in the Adelphoe」(1980年)。デメアとミキオの会話、行番号736〜741の英訳、発話者がミキオであることを照合しました。
【チェスの比喩の典拠】Arthur Schopenhauer『Counsels and Maxims』第4章第48節(Wikisource)。ラテン語のテレンティウス引用と、その後に続くチェスの比喩を確認しました。
【別のテレンティウス本文引用】『Hoyle’s Games Improved and Enlarged』(1842年版)書誌・扉の格言。『Adelphoe』第4幕第7場のサイコロの文章が19世紀の書物でもラテン語で引用されていたことを確認しました。
監査判定:原典の戯曲『兄弟』第739〜741行と、ミキオの台詞を確認済み。旧記事の「将棋」はテレンティウス原文に対応せず、ショーペンハウアーのチェスとの混同の可能性あり。日本語の将棋への置き換えが誰によるものかは未確認であるため、変形過程の断定は避けています。
同じように文学作品の発話者を明らかにした記事としてキングズリー『聖女の悲劇』の言葉があります。名言・翻訳の扱いは出典ガイドをご覧ください。

人生をゲームに例えるとき、大事なのは思いどおりの目が出ることだけではありません。すでに起きたことにどう応じるか。テレンティウスのサイコロの台詞とショーペンハウアーのチェスの比喩を分けることで、運と工夫の違いが以前より具体的に見えてきます。