「人間はどんなに偉くとも、人情に通ぜず、血と涙がなくては駄目だ」。幕末の長岡藩士・河井継之助に帰属する一節です。勇猛な政治家の「部下には優しくせよ」という標語として読まれがちですが、出典を追うと『論語』『大学』のような古典に加えて、浄瑠璃本も読んで人間の心を知れという、意外な読書の勧めの中に出てくる言葉でした。
2006年の河井継之助記念館小冊子に文脈が残る
河井継之助記念館が2006年12月27日に発行した小冊子『河井継之助のことば』の全文が、長岡に関する磯田達伸氏の2022年公開ページに掲載されています。冒頭には、小冊子は今泉鐸次郎著『河井継之助傳』から言葉を選び、平易に書き直して年代順に編集したと説明されています。
この説明から、公開されている文章は歴史研究の手掛かりとして重要ですが、1860年代に本人が発した言葉の逐語的な原文ではなく、後世の伝記をもとにした現代語の再構成でもあります。旧記事の言い回しと小冊子にある「なくては」のような表記差を見逃さないようにします。
発言の場面は「町同心たちの集まり」の見回り
小冊子の説明では、河井が町同心たちの集まるところを見回った際に語ったとされています。そこで河井は、古典には人の生き方の教えになることが書かれているが、浄瑠璃にも人々の世情の細やかな動きが描かれているので読んだ方がよい、という趣旨を述べています。
「血と涙」の一節だけを取り出すと感傷的な道徳論に聞こえます。しかし、元の話の焦点は、実際の世の中で人がどう考え、どう苦しみ、どう喜ぶかを知ることにもありました。書物を読むことを、試験や名誉のためだけではなく、他者を理解する方法として捉えた言葉として読めます。
なぜ「浄瑠璃本」だったのか
浄瑠璃は、語りと音楽を伴う芸能として発展し、歴史上の出来事や人の情、対立や決断などを物語の中で表現してきました。人が道理どおりには動かないこと、強い感情や立場の違いを抱えていることを、物語を通して考える入口になります。
ただし、河井が浄瑠璃作品を何冊読んだか、どの演目が好きだったかまで、ここで確認した資料からは分かりません。また、芸能が儒学より優れているといった順位づけを主張したとも断定できません。古典と芸能の双方に学ぶものがある、という紹介の範囲にとどめます。
「人情に通じる」とは何を意味するのか
人情に通じることは、相手の望むことを何でも許すこととは違います。異なる立場の人が何を恐れ、何を守りたいと感じているかを想像し、本人の言葉に耳を傾けることです。実際に人へ接するときには、事実を確かめ、公平さを保つことも必要になります。
たとえば役所や企業で制度を作る際に、決まりだけを説明しても相手が納得しないことがあります。人が何に困っているかを理解すれば、説明の仕方や支援方法を見直せるかもしれません。ただし、これは当サイトの応用例であり、河井が現代の行政サービスの改善方法を示したという意味ではありません。
「血と涙」の言葉を指導者の美談だけにしない
河井は長岡藩の政治改革と軍事の両面に関わり、北越戊辰戦争で軍事総督を務めました。彼の言葉に人間への共感があるからといって、戦争での選択やその犠牲がなかったことになるわけではありません。
新潟県の北越戊辰戦争の解説には、長岡城奪還と再落城、河井の負傷と撤退が記されています。実際の政治と戦争の判断を、倫理的な言葉の存在だけで一律に正当化しないことが、歴史を扱う際には重要です。
もう一つの読書論との関係
同じ小冊子には、河井が仲間に向け、ただ面白いだけの読書をするくらいなら芝居や寄席に行けばよい、と言ったとされる別の逸話があります。「面白いだけなら本を読むな」を扱う記事です。
これは文学や芸能を軽視している発言に見えますが、「血と涙」の逸話を合わせて読むと、河井は浄瑠璃などの物語から世の中を学ぶ価値も認めています。二つの言葉は、面白さを否定するのではなく、読んだり観たりしたものから何を得たいのかを考える手掛かりになるでしょう。
現代の読書にどう生かせるか
学問や実用書だけでなく、小説、映画、演劇、漫画なども、違う生き方を想像する材料になり得ます。物語の人物が何を大切にし、なぜ誤った判断をするのかを考えることで、人への見方が変わることもあるでしょう。
もちろん作品だけで実際の人間を完全に理解することはできません。表現された物語と現実の人は違います。読むことと、目の前にいる相手の話を直接聞くことを補い合うものとして考えたいところです。
出典と確認範囲
出典状態:要検証/現代語の文言変化あり。2006年の河井継之助記念館小冊子が、今泉鐸次郎『河井継之助傳』をもとに編集した発言として、この一節と「浄瑠璃本を読め」という背景を紹介しています。『河井継之助傳』の原本該当ページや河井の同時代の記録は今回直接照合していません。発言そのものの逐語一致は確定していないため、要検証を維持します。
資料:『河井継之助のことば』(2006年、記念館小冊子の全文再掲) / 国立国会図書館『河井繼之助傳』(今泉鐸次郎) / 新潟県・北越戊辰戦争史跡。関連記事:本を読む目的 / 外山寅太への「商人になりやい」。
