「世の中から凶悪な人間はなくならない。人間の凶悪な心は不滅である。ただ警察の手と眼をもって、これらの凶悪を抑制するだけである」。川路利良の言葉として紹介される一節の原典は、1879年刊『警察手眼』の末尾にある「探索心得」第85条です。旧記事では漠然と人間の悪を語る思想として紹介していました。しかし原文を読めば、単なる人間不信の主張というよりも、犯罪を防ぐための警察の探索・抑止の役割を語る条項であるとわかります。
出典は『警察手眼』最後の第85条
国立国会図書館の書誌にある『警察手眼』は、川路利良が述べ、植松直久が編纂し、佐和正が閲した明治12年(1879年)の刊行物です。Wikisource「探索心得」には第67条から第85条までが収められ、最終の第85条に今回の一節に対応する文章があります。
世ニ兇惡ノ徒ナキヲ得ズ人ニ兇惡ノ心ナキヲ得ズ
第85条は、世の中から凶悪な者や凶悪な心を完全になくすことはできないという趣旨で始まり、警察の「手眼」によって抑制すると続きます。ここでいう「手眼」は書名にも使われる言葉で、単純に身体の手と眼のことだけを言っているわけではなく、状況を知り行動するための働きを表す比喩として読むことができます。
原文の結びは、さらに強い呼びかけになっている
第85条はこの短い一節で終わりません。後半では犯罪を企てる者へ向け、何をしようとしても警察は見ていて、その企てを知っているのだ、という強い語りかけが続きます。これは警察の存在と探索能力を示して犯罪を思いとどまらせる、抑止の姿勢を表した文章です。
ただし、原文が「警察は人の心をすべて読み取れる」という超自然的な能力を主張したと文字どおりに受け取る必要はありません。そのように読める強い修辞は、探索による抑止力を印象づける表現として理解する方が自然でしょう。
「人には悪い心がある」は普遍的な科学的事実か
人間の行動や犯罪の要因は単純ではありません。第85条は明治期の警察思想を示す歴史資料であり、現代の心理学や犯罪学によって「すべての人に同じ凶悪な心がある」と証明された研究結果ではありません。
強い言い回しをそのまま、人間は誰でも危険である、だから常に疑うべきだという現代社会の原則に転換するのは適切ではありません。職務上の警戒と、一人ひとりを根拠なく犯罪者扱いすることは違います。
「探索心得」には証拠を確かめる戒めもある
同じ「探索心得」の第69条では、怪しい話には実体がないものも多いと注意します。第70条は、探索人や告発人の片言をすぐ信じて手を下さず、双方の事情を照合し、事実を得てから行動するべきだと説いています。
この条項を読むと、第85条だけを抜き出して「疑いがあれば行動してよい」という意味にすることが、資料全体の内容に反することがわかります。証拠を慎重に確かめる考え方と、危険への備えが同じ章に置かれています。
同じ章には、現代から批判的に読むべき記述もある
一方、第83〜84条には、生業のない人を「不良民」とみなし警戒の対象とする表現があります。これは職業の有無から個人の善悪を分類する考えであり、今日の人権や個人の事情への配慮という観点からは、そのまま受け入れるべきものではありません。
歴史資料を誠実に読むためには、今も考える価値のある仕事上の注意と、時代背景の中で生まれた偏見や制度的な限界を同時に見つめることが必要です。一部分を評価できるからといって、全体を無批判に正しいと判断することはできません。
抑止を考えるなら、権限の限界も必要
人々の安全のために犯罪を防ぐ取組は重要です。しかし監視や探索には個人の自由やプライバシーへの影響があります。現代の警察活動では法律に基づく権限の範囲、必要性、適正な手続が問われます。
第85条の歴史的な理念から、現代の無制限の監視やあらゆる人への疑いを正当化することはできません。防ぐべき被害と守るべき権利の両方を考えることが必要です。
この言葉を日常の人間関係へ置き換えない
「人の悪い心はなくならない」という一節は、人を簡単に信用してはいけないという人生訓に使われることがあります。しかし、警察の探索心得として書かれた言葉を、家族や職場の人を根拠なく疑う理由にするべきではありません。
社会の中で問題が起きる可能性に備えることと、特定の人を証拠なしに危険だと決めつけることは異なります。人間関係では、相手の実際の行動や状況を丁寧に見ることが必要です。
出典と確認範囲
出典状態:『警察手眼』「探索心得」第85条の対応原文を確認/流通する現代語には意訳・文言変化あり。「凶悪の徒」「凶悪の心」「警察の手眼」「抑制」に対応する原文は第85条にあります。旧記事の「不滅である」という語は、なくすことができないという趣旨の現代語化であり、原文をそのまま写したものではありません。所蔵原本の版面と翻刻の細かな異同は未確認です。
資料:『警察手眼』「探索心得」第69〜70・83〜85条 / 国立国会図書館『警察手眼』書誌。関連:「非常ノ警」第8条 / 「仁愛補助」第9条。
