はじめに――『タイム・マシン』の主人公は未来から帰れたのか
H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は、未来へ移動する機械を発明した男が、遠い未来の地球で未知の人類と出会う小説です。後年の映画やアニメを思い浮かべる人もいるでしょう。しかし、1895年の原作では、主人公は一度は現代へ帰ってきたあと、再び姿を消すという二段階の結末を迎えます。
物語にはエロイとモーロックという二つの人類の末裔が現れます。地上の豊かな暮らしと、地下にいる人々の仕事をめぐる関係は、単なる怪物退治の設定ではありません。社会を分ける格差が、遠い時間の先でどのような形になるかという想像が含まれています。
ここではProject Gutenbergの英語本文を中心に、1895年のロンドン刊行本の書誌資料と版の違いも確認します。同作には英国版、米国版、連載版など複数の本文があり、すべてを一字一句同一とみなさないことを前提に、結末まで解説します。
1895年の原作――名前のない「時間旅行者」の物語
英国版『The Time Machine: An Invention』は1895年、ロンドンのウィリアム・ハイネマン社から出版されました。イリノイ大学図書館のデジタルコレクションには当時の刊行本の書誌が残されています。現在の映像化作品よりずっと前の19世紀末に、時間移動を機械で行う構想が小説化されていたのです。
物語の中心人物は、固有の名前ではなく「Time Traveller(時間旅行者)」と呼ばれます。彼は友人たちの前で時間を第四の次元として説明し、機械の模型を見せます。読者は彼本人の手記を直接読むのではなく、彼の話を聞いた別の人物の語りを通じて事件を知る仕組みになっています。
作品の刊行には複数の経緯があり、英国版と米国版の本文には異なる部分があります。Project Gutenbergの電子本文や再編集された現代のテキストを、1895年の英国初刷と完全に同一だと断定しません。どの版に依拠して説明しているかを明らかにすることは、原作と映像版を区別するのと同じくらい大切です。
西暦802701年――エロイとモーロックの正体
時間旅行者が到着するのは西暦802701年の地球です。明るい地上には、幼い子どものような姿をしたエロイが暮らしています。美しい景色とゆったりした生活に、旅行者は最初、遠い未来は平和な楽園になったと感じます。最初に見えた景色だけでは、社会の仕組みを理解できなかったのです。
やがて地下にモーロックという別の存在がいることが分かります。彼らは暗い場所で機械を動かし、地上の人々と奇妙な関係を持っています。二つの集団がどのように分かれたのかは時間旅行者の推測を通じて説明され、科学的に実証された未来史ではありません。
地上のエロイは無力で、夜の闇やモーロックを恐れています。地下のモーロックはエロイを食べていると旅行者は考えます。何の苦労もない社会に見えても、それが別の人々の労働や犠牲に支えられている可能性を描くところに、物語の社会批評があります。
ウィーナと白いスフィンクス――失われた時間機械
時間旅行者は、川で溺れかけたエロイの女性ウィーナを助け、親しくなります。彼女は旅行者に花を渡し、危険なときにもそばを離れまいとします。未知の世界で芽生えた親しさが、未来の地球を単に観察する場所から大切な誰かがいる場所へ変えるのです。
しかし、時間機械は白いスフィンクス像の近くから消えます。旅行者はモーロックが持ち去ったと考え、機械を取り戻す方法を探します。未来について知ることより、元の時代へ帰るために必要な唯一の手段を失ったことが、旅の切迫感を生みます。
森でモーロックに襲われた際、旅行者は火を使って抵抗しますが、周囲へ燃え広がります。混乱の中でウィーナは行方不明となり、戻ってきません。原作は彼女が安全に現代へ移ったとは描いておらず、旅行者は彼女を失ったと受け止めています。映画版の恋愛物語をそのまま当てはめないために重要な点です。
時間旅行の終盤――地球の遠い未来と帰還
旅行者はスフィンクスの内部で時間機械を取り戻し、モーロックの仕掛けた罠から抜け出します。その後、すぐには現代へ戻らず、さらに遠い未来へ進みます。時間旅行を通じて見たのは人類の分裂だけでなく、地球そのものが長い時間で変化していく姿でした。
彼が目撃する世界では、太陽の様子も変わり、生物はまばらになっています。原作本文には三千万年以上先という描写もありますが、現代科学による地球の未来を正確に予言した記録ではありません。19世紀末の科学的な想像力と、当時の物語表現として区別して読む必要があります。
最終的に旅行者は、友人たちのいる時代へ戻って自らの経験を語ります。身体には傷があり、未知の花を持ち帰っていました。少なくとも一度は帰還に成功したことは原作で明確ですが、その後の出来事が本当の結末をさらに複雑にします。
結末と原典――二度目の旅から戻らなかった理由
翌日、物語の語り手は時間旅行者を再び訪ねます。旅行者は機械でどこかの時代へ出発し、今度は帰ってきません。語り手は、彼が数年たっても姿を現さないことを記しています。原作では二度目の旅の目的地や最終的な死因が明かされず、単純に未来で死亡したと断定できないのです。
作品の末尾には、ウィーナのくれた二つの白い花が残ります。遠い未来の恐怖を語るだけでなく、他者への親切や感謝を示すものとして花が記憶されています。何百万年という大きな時間の話が、小さな思いやりの証拠で締めくくられるところが印象的です。
原典:Project Gutenberg『The Time Machine』英語本文・最終章とEpilogue、イリノイ大学図書館・1895年ハイネマン刊本の書誌、Wikisource・英国版/米国版/連載版の異同の案内。同じウェルズによる『宇宙戦争』原作解説や、『海底二万里』原作解説とも比較できます。原著者は1946年没で、日本での原著の通常保護期間は経過していますが、現代訳や映像作品の権利とは区別して独自に要約しました。