はじめに――誰の物語が「主流」とされるのか
映画や小説について話すとき、ある人物を中心に描く作品は幅広い人が楽しめるのに、別の人物を中心に描くと「特定の人向け」と呼ばれることがあります。その境目は本当に作品の中身で決まるのでしょうか。俳優ケイト・ブランシェットは2014年のアカデミー賞主演女優賞の受賞スピーチで、女性を中心にした映画を小さな市場向けだと考える見方に反論しました。
原文で彼女が否定した言葉は「niche experiences」です。ここでは「限られた人だけに向けた作品」と説明します。女性が中心の物語であるという理由だけで、鑑賞する人の広がりを最初から狭く見積もる必要はないという主張です。
発言は2014年3月2日の第86回アカデミー賞授賞式で、映画『ブルージャスミン』の演技によって主演女優賞を受賞した際のものでした。アカデミー公式の受賞記録と当時のスピーチ文字記録を照合し、受賞者自身の主張と、後世に検証が必要な市場の一般論を区別して読み解きます。
『ブルージャスミン』がきっかけになった発言
『ブルージャスミン』でブランシェットが演じたのは、裕福だった生活を失い、人生が揺らぐ女性です。2014年の受賞スピーチで彼女は、作品が映画館で長く上映され、観客が足を運んだことに感謝しました。一人の女性を主人公にした物語が、実際に多くの人に届けられた経験を背景として語っています。
スピーチでは配給会社や観客、共演者への謝意が述べられました。受賞は俳優一人の力で生まれるものではなく、脚本、演技、撮影、宣伝、上映まで多くの仕事が関わります。作品の成功を個人の才能だけに還元しない姿勢も読み取れます。
ただし、一本の映画が観客を集めたことだけで、あらゆる女性主人公の映画が必ず商業的に成功すると証明できるわけではありません。作品の内容や宣伝、上映規模などによって結果は変わります。経験から偏見を問い直すことと、実績を普遍的な法則へ変えてしまうことは違います。
「ニッチ」という分類にはどんな前提があるか
ニッチとは本来、特定の需要や関心に対応する市場の一部分を指す言葉です。それ自体が悪い意味を持つわけではありません。しかし、ある属性の人物が主人公というだけで作品の可能性を小さく見積もるなら、分類の根拠を確かめる必要があります。市場調査による説明と、慣習的な思い込みを混同しないことが大切です。
例えば女性が主人公の映画にも、コメディー、サスペンス、歴史劇、家族の物語などさまざまなジャンルがあります。「女性が中心だから特定の観客しか見ない」と決めると、作品同士の違いが見えなくなります。人物の属性だけで、多様な作品を一つの棚へ押し込まない視点が必要です。
反対に、誰でもすべての作品を楽しめると言い切る必要もありません。人によって好みは異なります。重要なのは、制作や配給の意思決定で、作品の内容を確かめる前に可能性を狭める判断をしていないか問い直すことです。
受賞した人が他の俳優へ向けた敬意
ブランシェットは受賞時、同じ主演女優賞に候補入りした俳優たちの仕事にも言及しました。賞は一人しか受け取れませんが、だからといって他の候補の演技の価値がなくなるわけではありません。受賞の喜びと、同じ分野で活動する他者への敬意を同時に表すという姿勢です。
また、作品の共演者サリー・ホーキンスをはじめ、制作を支えた人々への感謝も語っています。俳優の仕事は相手の演技や現場の協力によって形づくられます。舞台の中央に立つ人が、画面の外側にいる人へ言葉を向けたところにも意味があります。
もちろん、感謝の言葉だけで映画産業の機会の格差が解消されるわけではありません。新たな人材へ仕事を開き、作品が届く環境を整えることも必要です。よい言葉を語ることと、制作・配給の実務を変えることの両方を見据えるべきでしょう。
「誰に向けた作品か」を見直す実践
文章や映像を企画するとき、まず読者や観客をどのように想定しているかを書き出してみます。例えば「この題材は若い人にしか興味がない」と考えたなら、その根拠を確かめます。調査した事実から対象を考えているのか、過去の印象で決めているのかを区別するという方法です。
次に、作品を試した人の反応を確認します。想定外の人が関心を示した場合は、その理由を聞いてみます。一方、反応が少なかったときも、対象者の問題だけでなく説明の仕方や届け方を見直せます。人の可能性を決めつける前に、届ける側の方法にも改善の余地がないか考えることができます。
制作の機会を広げる制度面ではフランシス・マクドーマンドの「インクルージョン・ライダー」、仕事の場を自らつくるという視点ではビヨンセの2020年卒業式スピーチが関連します。作品への評価と、誰に作品をつくる機会があるかを分けて考えられます。
まとめ――作品を見る前に可能性を閉ざさない
ケイト・ブランシェットの2014年受賞スピーチは、映画の興行成績について普遍的な成功法則を示したものではありません。女性を中心にした物語が最初から小さな市場向けだと決めつける業界の見方を問い直したものです。
実際の作品を見て、観客の反応を確かめ、数字と感想の両方を検討する。大切なのは、人物の属性だけで価値を測らないことです。誰の物語でも、語り方と届け方によって新しい観客との出会いが生まれる可能性があるという教訓が残ります。
出典は映画芸術科学アカデミーによる第86回アカデミー賞公式受賞記録と、2014年3月3日付の受賞スピーチ文字記録です。豪ABCの同時代報道でも発言の趣旨を確認しました。公式資料と報道による文字起こしを区別し、短い原語表現以外は独自の日本語解説としています。