はじめに
「すべてのものが確かであるということは確実ではない」。この日本語がパスカルの名言として紹介されることがありますが、原典を確認すると重要な違いがあります。
『パンセ』で確認できるのは「Il n’est pas certain que tout soit incertain.」。つまり、「すべてが不確かである、ということも確かではない」です。「確か」と「不確か」が逆になるだけで、思想の意味は大きく変わります。
原文は「すべてが不確かだとも断言できない」
この一節は、徹底的な懐疑を扱う文脈にあります。何も確実ではないと疑う立場に対して、パスカルは「すべてが不確実だということまで確実なのか」と問い返します。
したがって、これは単純な「常識を疑おう」「情報を鵜呑みにするな」という教訓ではありません。疑うことそのものを絶対化すれば、「何も確実ではない」という新しい断言を作ってしまう。その自己矛盾を突く逆説です。
パスカルは何でも疑えと言っていない
別の『パンセ』断片で、パスカルは「疑うべきところでは疑い、確かにすべきところでは確かにし、従うべきところでは従う」必要があると書いています。
そして、すべてを証明済みのように断言する人、すべてを疑う人、すべてに服従する人の三者をそれぞれ誤りとして挙げます。ここから分かるのは、パスカルが「懐疑こそ正しい」と考えていたわけではないことです。
理性の力は、理性の限界を知ることにもある
同じ「理性の使用」をめぐる断片群には、「理性の最後の歩みは、理性を超える無数のものがあることを認めることだ」という有名な一節もあります。
理性を捨てるのでも、理性だけですべてを支配するのでもない。どこで証明でき、どこで疑い、どこから先は理性だけでは扱えないのかを見分ける。その境界感覚がパスカルの重要なテーマです。
なぜ日本語の違いが重要なのか
「すべてのものが確かであるということは確実ではない」なら、「確実だと思っているものにも疑問を持とう」という意味に読めます。
しかし原文はその一段先へ進みます。「何も確実ではない」と考える自分の懐疑まで、本当に確実なのか。疑いを道具として使いながら、疑いそのものも絶対化しない。ここにこの言葉の面白さがあります。
まとめ
流通していた「すべてのものが確かであるということは確実ではない」という日本語は、原文の意味を正確には伝えていません。
パスカルが『パンセ』で書いたのは、「すべてが不確かである、ということも確かではない」という逆説です。何でも信じることにも、何でも疑うことにも逃げない。理性の力と限界の両方を考えたパスカルらしい一節です。