「人に心を動かすとか、みんなから心を動かしてもらったというような、そういった感覚を味わせてあげたい」。教育実践家・菊池省三の名で流通する文章です。旧記事はこの言葉を、相手を感動させれば人間関係が良くなるという普遍的な教訓にしていました。しかし、菊池が重視する教室での対話は、教師が子どもの心を一方的に動かすだけの活動ではありません。子どもが話し、友達の意見を聞き、それによって自分の考えが変わる経験まで含みます。
この長い文言の出典は確認できるか
菊池省三の名言を集めたサイトには、この長文が本人の言葉として掲載されています。別の名言一覧にも類似形が見られます。しかし、いずれも発言のあった授業・番組・取材、書籍ページ、元の音声との逐語照合先を提示していません。
したがって出典状態は「要検証」です。言い回しにある「心を動かす」と「心を動かしてもらう」の違いを考えることはできますが、それがいつ誰に向けて発せられたかは断定しません。また、「味わせて」という表記が本人の言い方か、書き起こし・再録時の表記かも不明です。以下は発言の逐語証明ではなく、別資料で追跡できる本人の教育実践を通した検討です。
「感動させる授業」より、「相手の意見で考えが動く授業」
リクルートワークス研究所による2021年の菊池本人への取材は、菊池が学級づくりの根幹に話す・聞く力を置き、互いを認める関係があってこそ授業が成立すると説明していることを伝えています。帰りの会で行う「ほめ言葉のシャワー」や、子ども同士のスピーチ・ディベートは、そのための具体的な活動です。
ここで問われるのは、どれだけ人前で感動的なことを話せるかだけではありません。友達が自分と違う考えを持つことに気づく、その理由に耳を傾ける、質問されて考え直す。心が動く場面とは、必ずしも涙を流すほどの劇的な出来事ではなく、相手の言葉によって自分の見方に揺らぎが生まれることもあるはずです。これは実践記録に基づく当サイトの読み方です。
実際の授業:目標は「大きい」か「小さい」か
小学館「みんなの教育技術」の道後小学校4年生の授業記録(2025年公開)では、菊池が子どもたちに目標を「大きいイメージ」と捉えるか「小さいイメージ」と捉えるかを問いかけています。児童は二つの立場に分かれ、身近な経験を根拠に話し合いました。自分と同じ立場の友達の考えを聞いたあと、異なる立場へ質問や反論をしています。
注目したいのは、菊池が途中で立場を変えてもよいことを示した点です。反対側の考えを試しに引き受けたり、友達の説明を聞いて自分の意見を変えたりできる。「一度言ったことを最後まで守らなければならない」という緊張を弱め、考えの変化を学習過程として扱う工夫です。意見を変えることは、必ずしも負けたということではありません。
「意見が変わった」を、学びの成果として見る
小学館の高知大学教育学部附属小学校での授業記録には、友達の発言によって自分の立場を変えたり、考えが深まったり、いったん分からなくなったりする過程が示されています。そこでは、答えを即座に一つに決めるのではなく、ほかの子の視点が入ることで思考の方向が変わることを学習の一部として捉えています。
「分からなくなる」という変化も大切です。それまで明快だと思っていた問題に複数の見方があると気づけば、一時的に答えを選べなくなることがあります。すぐ結論に飛びつかない時間を、無駄な遠回りと決めつける必要はありません。学びの場では、他者の言葉が自分の確信を少し揺さぶること自体に意味があり得ます。
「心を動かす」と「心を動かされる」は対等か
自分の発表で相手が何かに気づくことも、相手の経験を聞いて自分の考えを修正することもあります。ただし、前者を「自分には人を変える力がある」、後者を「相手に従う」という上下関係に置き換える必要はありません。教室の対話では、発言する役と聞く役が入れ替わりながら進んでいくからです。
また、教師は全員の感情を思いどおりに操作できるわけではありません。話し合いに強く反応する子もいれば、静かに考え続ける子もいます。表情に変化が少ないからといって、何も受け取っていないとは限りません。「心を動かすこと」を教師や発表者の成績表にしない方がよいでしょう。
実践には、話し合いを支える設計が必要
2026年の道後小学校での授業記録では、子ども同士が異なる立場に分かれて意見を述べる際、教師が問いの焦点を整理し、対話を進める様子が紹介されています。自由に話せることと、ただ好き勝手に発言することは同じではありません。子どもが話す内容を理解し、相手に届け、次の意見につなげるための支えが必要です。
菊池の公式サイトでも、安心感のある学級と、考え続ける人間・豊かな対話力の育成が目標として示されています。学級全体に安心がなければ、誰かに笑われることを恐れて話せない場合もあります。心が動くような交流は、強い発言を増やすだけでなく、安心して聞いたり考えたりできる環境とも結びついています。
毎回感動しなくても、人は学べる
話し合いのすべてが大きな感動につながるとは限りません。昨日と同じ結論を持ち帰る日も、納得できない意見に出会う日もあります。だから、心が動くという表現を「必ず一度は感動しなさい」という命令に変えてはいけません。
意見を述べることが難しい状況にある人には、発表する以外の方法が必要なこともあります。書いて伝える、少人数で話す、時間をかけて考える、参加を見送る。そうした選択肢も、相手の考えを尊重することと両立します。これらは菊池が前掲記事ですべて指定した方法ではなく、教育上の配慮として当サイトが提示する考えです。
読者が日常に持ち帰れる問い
仕事や家庭で対話を考えるとき、「相手を説得できたか」だけでなく「相手の話を聞いたあと、自分の理解は何か変わったか」と問い直すことができます。相手の意見に同意しなくても、なぜそう考えるのかを以前より理解できることはあります。言い返すより先に質問することで、見えていなかった事情が分かる場合もあるでしょう。
ただし、対話はいつでも安全だとは限りません。不当な言動や脅しがある関係で、ひたすら相手の気持ちを理解し続ける義務はありません。距離を取ること、第三者に助けを求めることも選択肢です。「人の心を動かす」という目標を、危険な関係から離れない理由にする必要はありません。
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「褒めて認めて信じる」では、相手の行動の変化を認める言葉と、安心できる教室をつくる取り組みを解説しています。「主張できることは自分らしさ」では、違う考えを伝えることと聞くことの両立を扱います。「自信がないから、つるむ」では、評価の恐怖や同調を強いる集団関係に注意を向けました。本記事は、その先で実際の対話を通じて何が変わるかに焦点を当てます。
出典と確認範囲
出典状態:要検証。確認済み:流通する長文を掲載した複数の名言一覧の存在。菊池本人への取材で、対話・話す・聞く活動が学級づくりの中心に位置づけられていること。小学館の授業記録で、児童が意見を変えたり、異なる見方を検討したりする具体的な実践が紹介されていること。未確認:流通文言の逐語的な初出、発言日時、元の授業や番組、再録に伴う表記変更。別の実践記録の存在は、短文の真偽を完全に証明しません。
参照資料:リクルートワークス研究所・菊池本人取材 / 小学館・道後小学校の授業記録① / 小学館・道後小学校の授業記録② / 小学館・高知大学教育学部附属小学校の授業記録 / 流通文言を掲載した名言一覧(二次資料)。判定の読み方は当サイトの出典状態ガイドを参照してください。
