モンテーニュの名言を原典まで調べてわかったこと|「自分自身に属する」とはどういうことか

はじめに

モンテーニュの名言を一つずつ『エセー』の原典までたどっていくと、最初は別々に見えた言葉が、しだいに同じ場所へ集まってきます。

孤独、自由、友情、運命、富、地位、死、習慣、他者との関係。扱うテーマはばらばらです。しかし、その底には一つの問いが繰り返し現れます。

自分の人生を、どこまで自分自身のものとして生きられるか。

モンテーニュは「世界で最も偉大なことは、自分自身に属すること」と書きました。この一文を軸にすると、『エセー』に散らばる多くの名言が一本の思想として見えてきます。

孤独とは、人のいない場所へ逃げることではない

モンテーニュの「孤独について」を読むと、孤独の意味が現代的なイメージとは少し違うことに気づきます。

社会的な仕事をやめても、今度は家庭の運営へ心を奪われれば、一つの仕事を別の仕事へ交換しただけかもしれない。宮廷や市場を離れても、野心や欲望や恐れをそのまま連れていけば、本当の意味では何も離れていない。

だから彼が求めたのは、完全な社会離脱ではありません。外側に何があっても、自分へ戻ることのできる場所を内側に残しておくことでした。

「他人には自分を貸し、自分自身にだけ自分を与える」という別の一節は、その感覚を鮮やかに表しています。人に関わらないのではない。人には自分を貸す。しかし、自分自身の所有権まで渡してしまわない。

自由とは、世界を思い通りにすることではない

「真の自由とは、自分自身に対してあらゆることをなしうること」という言葉も、この線上にあります。

自由というと、好きな場所へ行き、好きな仕事を選び、誰にも邪魔されず行動できることを考えがちです。しかしモンテーニュの視線は、自分の外側だけではなく内側へ向かいます。

他人から命令されていなくても、欲望、恐怖、評判、野心に完全に支配されているなら、本当に自由なのか。

さらに彼は「出来事を思い通りにできないので、私は自分自身を調整する」と書きます。世界を自分へ従わせることには限界がある。ならば、自分と世界との関係を調整する。

モンテーニュの自由は、支配できる範囲を無限に広げることではなく、支配できない世界の中でも自分自身を失わないことに近づいていきます。

富や地位は「幸福を生きる自分」の代わりにはならない

この考えは幸福論にも続きます。

モンテーニュは、幸福そのものも、それを感じ取る精神と活力がなければ享受できないという趣旨を書いています。富や地位など、幸福の材料を外側へ積み上げても、それを経験する主体がいなければ幸福にはならない。

そして『エセー』最終章には、あの有名な身体的比喩があります。竹馬に乗っても歩くのは自分の脚であり、世界で最も高い玉座に座っても、人は結局「自分の尻の上」に座っている。

肩書が変わっても、人生を経験する主体まで別人になるわけではありません。

外側を高くすることと、生そのものをよく生きることは別なのです。

「自分自身」とは固定された存在でもない

では、自分自身に属するためには「本当の自分」を発見すればよいのでしょうか。

ここでモンテーニュは、さらに面白い方向へ進みます。

彼は、人間を一つの固定した性格で説明することに慎重でした。「人を細部ごと、一つ一つ別々に判断すれば、よりしばしば真実を言い当てる」と書きます。

人間は一貫していない。勇敢だった人が臆病になることもある。考えも変わる。状況によって違う顔が現れる。

『エセー』という本そのものが、完成された「モンテーニュ像」を提示する本ではありません。変化する自分を、その時々に観察して記録する試みです。

だから「自分自身に属する」とは、固定されたアイデンティティを守り抜くことでもないのでしょう。変化し、矛盾し、揺れる自分について、他人より先に結論を出さず、自分で観察し続けることでもあります。

習慣は「自分らしさ」にまで入り込む

さらに厄介なのが習慣です。

モンテーニュは「習慣は第二の自然」と呼ばれるほど強い力を持つことを考察しました。また「食人種について」では、人は自分の慣習と違うものを「野蛮」と呼びがちだと指摘します。

つまり、自分が「自然だ」「常識だ」「自分らしい」と思っているものの中にも、社会から受け取った習慣が入り込んでいる。

自分自身に属するためには、単に自分の感覚へ従えばよいわけではありません。その感覚自体がどこから来たのかを疑う必要があります。

モンテーニュの自己探究が終わらないのは、そのためです。

名言を原典までたどると、モンテーニュ自身も単純ではなかった

今回の監査では、名言そのものの伝わり方にも多くの発見がありました。

「賢者は、生きられるだけでなく、生きるべきだけ生きる」は『エセー』に登場しますが、モンテーニュ自身の創作ではなくセネカからの引用です。

「人にとって人ほど恐ろしい獣はいない」に対応する文章も『エセー』にはあります。しかしモンテーニュは、古代史家の記述を踏まえて皇帝ユリアヌスの言葉として紹介しています。

一方、「人ひとりを殺すに値する思想などはない」は、モンテーニュ本人の逐語的な文章としてではなく、後世の文学史家ギュスターヴ・ランソンによるモンテーニュ思想の要約へたどり着きました。

そして「いつかできることは今日でもできる」という有名な日本語は、原典では「別の日に起こりうることは今日も起こりうる」という死をめぐる文脈にあり、翻訳と文脈の脱落によって行動・先延ばしの格言へ変化しています。

モンテーニュの名言を調べることは、モンテーニュだけを調べることではありません。言葉が引用され、翻訳され、要約され、別の意味を与えられていく歴史を調べることでもありました。

「都会の喧騒から」という問い

ここまで読んで、モンテーニュの孤独論がこのサイトの名前と不思議なほど重なることに気づきます。

都会の喧騒から離れるとは、必ずしも都会を出ることではありません。

仕事を辞めても、別の仕事に心を奪われるかもしれない。SNSを閉じても、他人の評価を頭の中で反芻し続けるかもしれない。静かな場所へ行っても、欲望や不安はついてくる。

モンテーニュが求めた孤独は、もっと内側にあります。

社会の中で生きながら、自分へ戻れる場所を失わないこと。

他人には自分を貸す。しかし自分自身まで渡さない。地位を得ても、自分の尻で座っていることを忘れない。運命を完全に支配できなくても、自分と運命との関係は調整する。そして「自分自身」さえ固定せず、観察し続ける。

まとめ

モンテーニュの名言を原典まで調べて見えてきたのは、「自分らしく生きよう」という単純なメッセージではありませんでした。

むしろ彼は、自分という存在さえ揺れ動くことを知っています。そのうえで、社会、習慣、地位、富、他者、欲望、恐怖へ、自分の人生の所有権をすべて明け渡さないようにする。

世界を完全に支配することはできない。それでも、世界との関係の中で自分自身を失わない余地は残されている。

「自分自身に属する」とは、完成した自分になることではなく、自分の人生を自分で観察し、引き受け続けることなのかもしれません。

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