モンテーニュ「私は自分自身を他のどんな主題より研究する」|『エセー』にとって自己とは何だったのか

はじめに

「私は自分自身を他のどんな主題より研究する。それが私の形而上学であり、自然学である」。モンテーニュの『エセー』第3巻第13章「経験について」にある、彼の仕事そのものを説明するような一節です。

モンテーニュは世界について語りながら、繰り返し自分自身へ戻ってきます。それは自分が世界で最も重要な人物だと思っていたからではありません。自分自身こそ、最も近く、実際に経験でき、それでも完全には理解できない研究対象だったからです。

なぜ「自分」が形而上学であり自然学なのか

形而上学や自然学といえば、本来は世界の存在や自然の仕組みを考える学問です。ところがモンテーニュは、その大げさな学問名を自分自身の観察へ引き寄せます。

宇宙の仕組みを完全に説明することより、まず自分がどう考え、どう感じ、どう変わるのかを見る。そこには、抽象的な体系より経験を重視する『エセー』の姿勢が表れています。

「本当の自分」を発見する話ではない

重要なのは、モンテーニュが研究する「自分」は固定された対象ではないことです。

『エセー』では、自分の判断が変わること、記憶が頼りにならないこと、状況によって行動が変わることを何度も認めています。彼は完成された自己像を発見して、それを守ろうとしているのではありません。

変化している自分を、変化しているまま観察する。その試み自体が『エセー』なのです。

「自分自身に属する」との関係

モンテーニュは別の場所で「世界で最も偉大なことは、自分自身に属すること」と書きました。

自分自身に属するためには、自分が何者なのかを決めつけるより、まず観察する必要があります。社会から与えられた役割、習慣、評判だけを「自分」だと思い込めば、自分について考えているようで、他人の尺度を眺めているだけかもしれません。

自己研究とは、自分を特別視することではなく、自分についてさえ簡単には分かったつもりにならないことでもあります。

まとめ

「私は自分自身を他のどんな主題より研究する。それが私の形而上学であり、自然学である」という言葉は、『エセー』という作品の性格を端的に表しています。

モンテーニュにとって、自分は答えではなく研究対象でした。

世界を理解しようとする前に、自分がどのように世界を見ているのかを見る。そして、その自分自身も変化し続けることを忘れない。『エセー』とは、自分という一生終わらない研究を記録した本だと読むことができます。

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