鳥のような翼を持ち、ネズミのようにも見えるコウモリ。そのコウモリが、二匹のイタチに次々と捕まります。一匹はネズミが嫌いで、もう一匹は鳥が嫌い。コウモリは相手の嫌いなものを聞き、それぞれ違う説明をして命を逃れます。
イソップ寓話として伝わる『コウモリとイタチ』(The Bat and the Weasels)です。機転が命を救う話にも、都合によって立場を変える話にも読めます。ただし、再話によって、最初のイタチが嫌う動物と、コウモリの答えが異なります。今回は、米国議会図書館の1919年版とジョージ・ファイラー・タウンゼントによる19世紀の英語版を比較します。
『コウモリとイタチ』のあらすじ
あるコウモリが、イタチの巣へ入り込んで捕まります。イタチはコウモリを食べようとしますが、コウモリは、自分はイタチが嫌っている動物ではないと説明して逃れます。
しばらくするとコウモリは、別のイタチにも捕まります。ところが二匹目のイタチは、一匹目とは別の種類の動物を嫌っています。コウモリは今度も、相手の思い込みを利用して助かります。
物語の中心は、コウモリが動物の分類を学んだことではありません。捕まえた側が、相手の正体を十分に確かめずに「敵」と決めていること、そしてコウモリがその隙を見て生き延びることにあります。
1919年版|最初のイタチはネズミ嫌い
米国議会図書館のRead.govでは、1919年刊『The Æsop for Children』に基づく「The Bat & the Weasels」を公開しています。この版では、最初のイタチはネズミを敵視しています。コウモリが捕まると、「ネズミは食べる」と言います。
コウモリは翼を示して、ネズミではなく鳥だと主張し、解放されます。数日後、別のイタチに捕まりますが、今度のイタチは鳥を嫌っています。コウモリは羽毛がないことを示して、自分はネズミだと言い、再び逃れます。
この1919年版では、ネズミ嫌い→鳥嫌い、鳥だと名乗る→ネズミだと名乗る、という順序です。末尾には風向きに合わせて帆を調整することを勧める短い教訓が添えられています。これは掲載された児童向け再話の教訓であり、古代の最初の語り手が同じ英文を書いたという意味ではありません。
タウンゼント訳|最初のイタチは鳥嫌い
ジョージ・ファイラー・タウンゼントの『Three Hundred Æsop’s Fables』(1867年刊として確認できる版)では、話の順序が逆です。最初にコウモリを捕まえたイタチは、鳥が嫌いです。そこでコウモリは「鳥ではなくネズミだ」と答えて助かります。
次に捕まえたイタチはネズミ嫌い。ここでタウンゼント訳のコウモリは、1919年版と同じく単に「鳥だ」と名乗るのではなく、「ネズミではなくコウモリだ」と説明して生き延びます。
その末尾の教訓は、状況をうまく利用する賢明さを述べています。1900年代に入ってからの児童向け再話と比べれば、よく似た筋でも、台詞と教訓の表現には違いがあります。
二つの版の違いを整理する
- 1919年版・第一のイタチ:ネズミが嫌い。コウモリは「鳥だ」と名乗る。
- 1919年版・第二のイタチ:鳥が嫌い。コウモリは「ネズミだ」と名乗る。
- タウンゼント訳・第一のイタチ:鳥が嫌い。コウモリは「ネズミだ」と名乗る。
- タウンゼント訳・第二のイタチ:ネズミが嫌い。コウモリは「コウモリだ」と名乗る。
- 共通点:イタチの思い込みに応じて説明を変え、二度命を救う。
この相違を、一方が必ず誤訳で他方だけが正しい、と決めつけるべきではありません。『イソップ寓話』は長い再話・翻訳の歴史を持つ物語群であり、ここで確認できたのは特定の二つの刊行形態です。古代ギリシャ語の最古の形、すべての異本、イソップ本人の文言まで確定していません。
コウモリは、本当に鳥にもネズミにもなれるのか
生物学的には、コウモリは鳥でもネズミでもありません。スミソニアン博物館の解説によると、コウモリは哺乳類の翼手目に属し、げっ歯類ではありません。翼を使って飛ぶものの、羽毛を持つ鳥とも異なります。
この寓話は、科学的な動物分類を教えるために作られた話として読む必要はありません。鳥に似た翼と、ネズミを連想させる姿が、相手の単純な区分を揺さぶるために使われています。「翼があれば必ず鳥」という見方が成り立たないからこそ、物語が展開します。
教訓①|生き延びるための機転と、ふだんの誠実さは同じ問題ではない
この話を「都合に合わせていつでも嘘をつこう」と読むことはできますが、それを普遍的な処世訓として勧めるのは危険です。コウモリが置かれたのは、命を奪おうとする相手に捕まったという、極端な力関係のある場面です。
危険を避けるために相手の思い込みを利用することと、日常的な契約、報告、約束で意図的に人を欺くことは分けて考える必要があります。コウモリの工夫を認めることが、あらゆる場面の不誠実さを正当化するわけではありません。
教訓②|分類の仕方で、人を傷つけてしまうことがある
二匹のイタチは、目の前の相手について詳しく知る前に、嫌いな種類の動物だと決めつけています。相手を「鳥かネズミか」の二択に押し込むことが、理不尽な扱いの始まりです。
今の社会で考えるなら、属性や所属によってその人を一律に判断することにも似ています。ただし、寓話に登場する動物の関係を、現代の人間の属性へそのまま対応づけるべきではありません。確認できる本人の行動と、分類から想像した特徴を分けるという点が、現代へ応用できる問いです。
教訓③|『主張を変えた』だけでは、理由を断定できない
相手の言うことが場面ごとに変わると、人は「ずるい」と感じるかもしれません。しかし、コウモリは最初から利益を独占しようとしているのではなく、食べられないために説明を変えています。
もちろん、コウモリの言い分は一貫した科学的説明ではありません。それでも、その不一致だけを見て「悪いのはコウモリだ」と決めつければ、イタチが危害を加えようとした状況を見落とします。相手の発言を評価するときは、言葉の内容だけでなく、置かれた条件と力関係も見る必要があります。
似ているようで違う『鳥と獣とコウモリ』
別のイソップ寓話『鳥と獣とコウモリ』では、鳥と獣が争い、コウモリは優勢な側へ加勢します。その行為が後から問題になり、双方から追われる筋があります。米国議会図書館の1919年版にも、この別の話が掲載されています。
こちらは自分の安全と利益のためにどの集団へ属するかを変える話で、戦いの後の信頼喪失が教訓となります。『コウモリとイタチ』と登場人物が同じでも、物語の構造と結末が違うため、両方を混ぜて一つのあらすじにしないことが大切です。
『オオカミと子羊』と比較すると
『オオカミと子羊』でも、強い動物が弱い動物を食べようとします。ただし、子羊の話では正しい説明を重ねてもオオカミは言いがかりを変え、子羊は助かりません。一方、コウモリは相手の分類の間違いを利用して逃れます。
この違いは、弱い側に万能な話し方があることを証明しません。理不尽な相手が納得するかどうかは、話し手だけの努力では決まらないという点も、二つを読み比べる価値です。
子どもと一緒に考える四つの問い
- コウモリは、どうして一度目と二度目に違う説明をしたのだろう。
- イタチたちは、相手がどんな動物か確かめる前に、なぜ食べようとしたのだろう。
- 危険なときに自分を守ることと、ふだん嘘をつかないことはどう違うだろう。
- 『鳥と獣とコウモリ』では、なぜ別の結末になるのだろう。
子どもへ「うまくごまかして生き残れ」と教えるより、物語の力関係を読み取り、危険な状況では自分だけで対処しなくてもよいことを話し合うきっかけにできます。
まとめ|二匹のイタチが教えるのは、身の守り方だけではない
『コウモリとイタチ』は、状況に合わせて名乗り方を変え、二度の危険を逃れる寓話です。しかし、1919年版とタウンゼント訳で、最初のイタチが嫌う動物も、コウモリの台詞も違います。版を比べることで「一つの正しい台詞」を探すより、物語が何を問うているかが見えてきます。
身を守る機転を認めながら、相手を安易に分類することの危険や、脅されている側への評価の難しさを考える。ほかの作品とのつながりは童話・寓話から考えるからたどれます。
出典・版・確認の範囲
- 米国議会図書館Read.gov「The Bat & the Weasels」:1919年刊『The Æsop for Children』に基づく再話。ネズミ嫌い→鳥嫌いの順序。
- George Fyler Townsend『Three Hundred Æsop’s Fables』「The Bat and the Weasels」:19世紀刊行版。鳥嫌い→ネズミ嫌い、二度目にコウモリだと答える筋。
- V. S. Vernon-Jones『Æsop’s Fables』「The Bat and the Weasels」(1912年版):もう一つの英語再話の参照。
- 米国議会図書館Read.gov「The Birds, the Beasts, & the Bat」:似た登場人物の別の寓話。混同を防ぐための比較。
- Smithsonian Institution「Bat Facts」:コウモリは哺乳類の翼手目であり、鳥やネズミとは異なるという分類上の説明。
出典状態:1919年児童向け英語再話、19世紀タウンゼント版、1912年のVernon-Jones版の掲載本文を照合しました。古代ギリシャ語の最初の形、イソップ本人の記述、全異版の系統は未確認です。現代の日本語のあらすじ・解釈は本サイトが独自に作成し、既存の訳文を長文転載していません。