「ちょっとこれやって」が招く、見えない組織崩壊
ひとりマーケターの孤独な戦いにおいて、最大の落とし穴は「リソースの無償利用」にあります。悪気のない「ちょっと」という依頼が、実は組織の信頼残高を食いつぶしている事実に気づくことから、すべては始まります。
中小企業やベンチャー企業の「ひとりマーケター」にとって、リソース不足は慢性的な病です。キャンペーンのバナー、LPのコーディング、データ抽出のためのクエリ作成。これらを専門スキルを持つデザイナーやエンジニアに頼らざるを得ない場面は多々あります。そこで多くのマーケターがやってしまうのが、チャットツールや口頭での「これ、ちょっとお願いできない?」「なる早で」というカジュアルな依頼です。
これを私は社内リソースの「万引き」と呼んでいます。
言葉は強いですが、本質を突いています。なぜなら、そこには「正規の手続き(コスト認識)」も「対価(リスペクトや成果の共有)」も存在しないからです。頼む側は「10分で終わる作業」だと思っていても、受ける側にとっては「集中作業の分断」であり、業務計画の破壊です。
根本的な原因は、あなたが彼らのスキルを「便利な道具」として見ており、「プロフェッショナルとしての時間」に対する想像力が欠如している点にあります。この「甘え」の構造を脱却しない限り、あなたの施策はいつか誰の協力も得られなくなり、破綻するでしょう。
クリエイティブとエンジニアリングの「原価」を正しく認識する
他者の時間を奪うことの経済的損失と、精神的コストを理解しましょう。「タダ働き」など存在せず、すべての業務には必ず企業としての投資が発生しているという視座を持つ必要があります。
マーケティングの原理原則において、コスト意識のない施策はあり得ません。しかし、社内リソースとなると、途端にこの意識が希薄になります。「社員なんだからやって当たり前」という甘えです。
まず理解すべきは、エンジニアやデザイナーの「メーカー(作り手)としてのスケジュール」と、マーケターやマネージャーの「マネージャー(管理者)としてのスケジュール」は、時間の流れ方が異なるという点です。ポール・グレアムが提唱した有名な概念ですが、作り手にとって「ちょっとした割り込み」は、深い思考のフローを断ち切り、再開までに膨大なエネルギーを消費させます。あなたの「10分の作業依頼」は、彼らにとって「半日の生産性低下」と同義かもしれないのです。
よくある失敗パターン:道具扱いする発注
「いい感じにしておいて」「とりあえずデータ全部抜いて」といった、思考を相手に丸投げする依頼です。これは相手を「思考するパートナー」ではなく「手足となるオペレーター」と見なす行為であり、プロフェッショナルの自尊心を最も深く傷つけます。結果、上がってくるアウトプットの質は最低限となり、「言われたことしかやらない」関係性が固定化されます。
社内発注の「通貨」を定義する:ブリーフィングは愛である
無償の労働を強いるのではなく、明確な「情報」と「意義」を対価として支払うこと。それが社内発注におけるルール化の第一歩であり、信頼関係を構築する唯一の手段です。
金銭のやり取りが発生しない社内業務において、支払うべき「通貨」とは何でしょうか。それは「解像度の高いブリーフィング(依頼書)」です。
忙しいひとりマーケターほど、「言語化する時間がないから」と口頭で済ませようとします。しかし、これは逆です。「言語化できていない=思考が整理されていない」状態のまま相手を巻き込むから、手戻りが発生し、お互いに疲弊するのです。
以下の3点を明確にした「社内発注チケット(ドキュメント)」を作成することをルール化してください。これは形式的な事務作業ではなく、相手への最大のリスペクト(愛)の表現です。
1. Why(背景と目的): なぜこの作業が必要で、事業にどう貢献するのか?
2. What(要件定義): 具体的に何を作るのか?(参考イメージやスペック)
3. Constraint(制約): 期限はいつか? 優先順位は?(「なる早」は禁止用語とする)
マーケティング・アーキテクトの視点で見れば、これは「要件定義能力」のトレーニングそのものです。社内の人間にすら意図を正確に伝えられない企画が、市場の顧客に届くはずがありません。
アナログな「貸し借り」から、デジタルな「透明化」へ
個人の人間関係に依存した「貸し借り」の業務フローは、組織のスケールを阻害します。ツールを活用してプロセスを可視化し、属人性を排除することが、健全な協力体制を作ります。
「あの人とは仲が良いから頼める」「今は機嫌が悪そうだから頼めない」。こうした感情的な調整コストは無駄です。現代のマーケターは、Notion、Jira、Asanaなどのプロジェクト管理ツールを用い、社内発注を「チケット化」して可視化すべきです。
これは管理を厳格にするためではありません。「誰が、何に、どれだけ貢献したか」を組織全体で承認するためです。チケット化されることで、デザイナーやエンジニアの作業は「隠れた雑用」から「記録に残る実績」へと変わります。
AI時代の「リスペクト」ある働き方
生成AI(ChatGPTやClaudeなど)の活用も、この文脈で捉え直すべきです。単純なコードの修正案や、バナーのラフ案作成、テキストの整形などは、まずAIに行わせる。その上で、「ここから先は、人間の感性や専門技術でしかできない領域だからお願いしたい」と依頼する。これこそが、AI時代におけるクリエイターへの真のリスペクトです。「AIでできる雑務」を人間に押し付けないことが、新たなエチケットとなります。
プロフェッショナルとしての「外交」と「対価」
依頼しっぱなしは「食い逃げ」と同じです。マーケターが支払うべき最大の報酬は、彼らの仕事がもたらした「市場からのフィードバック」と「成果の共有」にあります。
社内発注のルール化において、最も忘れられがちなのが「フィードバック・ループ」です。
「あのバナーのおかげでCVRが改善した」「あの機能改修でお客様から感謝のメールが届いた」。こうした定量的・定性的な成果を、必ず制作に関わったメンバーに還元してください。
マーケターは、社内における「市場の代弁者」です。エンジニアやデザイナーは、直接顧客の声を聞く機会が少ない場合があります。彼らの仕事が社会にどう影響を与えたかを伝えることができるのは、あなただけです。
よくある失敗パターン:成果の独り占め
プロジェクトが成功したときは自分の手柄にし、失敗したときだけ「クリエイティブの質が悪かった」と他責にする。これは論外ですが、無意識に「成功の共有」を忘れているマーケターは多いものです。数字が出た瞬間に、Slackや朝会で制作者の名前を出して称賛する。この「感情的な報酬」のデザインまで含めて、マーケティング・アーキテクトの仕事です。
まとめ:リソースの私物化を卒業し、チームの司令塔へ
「お願い」ベースの仕事から脱却し、プロとしての「発注」へ。その意識変革が、あなたを単なる「忙しい担当者」から、組織を動かす「マーケティング・アーキテクト」へと進化させます。
社内リソースの「万引き」をやめ、正規の「内部発注」プロセスを構築することは、一見すると手間がかかり、スピード感を損なうように感じるかもしれません。しかし、それは「手抜きのスピード」であり、「本質のスピード」ではありません。
リスペクトに基づいた明確なブリーフィング、プロセスの透明化、そして成果の還元。これらを徹底することで、エンジニアやデザイナーは「やらされ仕事」ではなく、「共に事業を伸ばすパートナー」としてあなたの背中を押してくれるようになります。
ひとりマーケターは、一人で全てを行う者ではありません。社内のあらゆる才能を有機的に結合させ、最大の価値を生み出す「ハブ(結節点)」になる者です。明日からの「ちょっとこれやって」を封印し、代わりに「このプロジェクトで、あなたの力が必要だ」というプロとしてのオファーを提示してください。それが、組織とあなた自身を救う唯一の道です。