はじめに
「群衆を楽しむことは一つの芸術である」。
この印象的な言葉は、シャルル・ボードレールの散文詩「群衆(Les Foules)」の冒頭にあります。死後1869年に刊行された『小散文詩(Petits Poèmes en prose)』、一般に『パリの憂鬱(Le Spleen de Paris)』として知られる作品群の一篇です。
原文は「jouir de la foule est un art」。短い一文ですが、ボードレールが近代都市の群衆をどのように見ていたかをよく表しています。
ここでいう「群衆を楽しむ」は、人混みが好きだという意味ではありません。詩人は群衆の中で他者の人生へ想像的に入り込み、自分ではない人間の喜びや悲惨まで自分のものとして経験していきます。
群衆は、孤独を消す場所ではなく、自分という一人の人間を無数の他者へ開く場所なのです。
「群衆を楽しむこと」は誰にでもできるわけではない
「群衆」の冒頭でボードレールは、群衆の中へ浸ることは誰にでも与えられた能力ではないと書きます。
そして「群衆を楽しむことは一つの芸術である」と続けます。
重要なのは、「芸術」という言葉です。
ただ大勢の人の中に身を置くだけなら、都市では誰にでもできます。しかしボードレールが描く詩人は、そこにいる無数の人間を単なる背景として眺めません。
仮面、旅、変装、見知らぬ人への好奇心を持ち、自分とは異なる人生へ入り込んでいく。その能力によって、群衆は騒音ではなく創作の源になります。
孤独と群衆は反対語ではない
この散文詩には、もう一つ有名な一節があります。
「群衆、孤独――活動的で豊かな詩人にとって、等しく交換可能な言葉」としたうえで、自分の孤独を満たせない者は、忙しい群衆の中でも一人でいることができない、とボードレールは書きます。
普通に考えれば、孤独と群衆は反対です。一人でいるか、大勢といるか。
しかしボードレールの詩人にとっては違います。
一人でいても想像力によって世界を満たすことができる。群衆の中にいても、自分を失わず一人でいることができる。
この能力があるからこそ、詩人は都市の中を自由に移動できます。
「自分自身であり、他者でもある」という詩人の特権
「群衆」の核心は、その直後にあります。
ボードレールは、詩人には思いのままに「自分自身であり、他者でもある」ことができる比類のない特権がある、と書きます。
そして身体を探す魂のように、詩人は望めば誰の人物の中へでも入っていく、と続けます。
これは単なる共感のすすめではありません。
詩人は、自分という固定された人格の中だけに留まらない。街で出会う見知らぬ人間の生を想像し、その人物の視点から世界を経験してみる。
創作とは、自分の内面を表現するだけでなく、一時的に「他人になる」能力でもある。
「群衆を楽しむことは芸術」という冒頭の一文は、ここまで読むことで意味が深まります。
群衆は「人間観察」の対象だけではない
都市を歩き、人を観察する。ここまでは多くの人ができます。
しかしボードレールが描く詩人は、観察者として安全な場所に留まりません。
散文詩の後半では、孤独な思索者が「普遍的な交わり」から独特の陶酔を得るとされます。そして群衆と容易に結びつく者は、状況が差し出すあらゆる職業、喜び、悲惨を自分のものとして受け入れると語られます。
つまり、他人を見るだけではない。他人の人生を想像の中で引き受ける。
この点で群衆は、詩人にとって無数の人生へ接続する装置になります。
なぜ「都市」が重要なのか
「群衆」は、近代都市を舞台にしたボードレールの詩世界を理解するうえでも重要です。
大都市では、知らない人と次々にすれ違います。
その人がどこから来たのか、何を失ったのか、何を望んでいるのかを知ることはありません。ほとんどの人は、一度視界に入っただけで二度と会わないでしょう。
だからこそ想像力が働きます。
すべてを知っている身近な人ではなく、何も知らない通行人だからこそ、その人の背後にある人生を想像できる。
匿名性は人間関係を薄くするだけでなく、詩人に無数の物語を与えるものにもなります。
「群衆が好き」と「群衆に飲み込まれる」は違う
この散文詩を「人混みを楽しもう」という話にすると、重要な部分が抜け落ちます。
ボードレールの詩人は、群衆へ入っても自分を完全に失うわけではありません。
自分自身でありながら他者になる。孤独でありながら群衆と結びつく。
一見矛盾する二つの状態を行き来できるからこそ、「群衆を楽しむ」ことができます。
群衆へ同化して自分を失うことでも、群衆から距離を取って冷たく観察することでもない。その中間を移動する能力が、詩人の「芸術」なのです。
現代の都市でも読める言葉
現在の都市でも、私たちは毎日大量の知らない人とすれ違います。
電車、駅、カフェ、商業施設、街路。そこには数え切れないほどの人生がありますが、ほとんどは背景として通り過ぎます。
ボードレールの言葉は、その背景をもう一度人間へ戻します。
目の前の一人にも、自分と同じように仕事があり、愛する人がいて、失敗があり、秘密があり、昨日と明日がある。
もちろん、実際の他人の人生を勝手に決めつけることはできません。しかし「自分以外にも同じ密度の人生が存在する」と想像することはできます。
その意味では、「群衆を楽しむことは一つの芸術」という言葉は、都市で他者を見る方法についての言葉としても読むことができます。
まとめ
「群衆を楽しむことは一つの芸術である」は、ボードレールの散文詩「群衆」の冒頭にある真正な一節です。
ここでいう「楽しむ」とは、人混みを好むことではありません。
孤独と群衆を自由に行き来し、自分自身でありながら他者にもなり、見知らぬ人々の喜びや悲惨へ想像力を開いていく。
その能力を、ボードレールは詩人の特権として描きました。
群衆とは、自分を消す場所ではなく、自分一人では生きられない無数の人生へ触れる場所なのです。
出典
Charles Baudelaire, “Les Foules”, Petits Poèmes en prose(『パリの憂鬱』として知られる散文詩集). 原文冒頭に「jouir de la foule est un art」とあります。
