不安は、なくすべきものなのか
不安になると、多くの場合「どうすれば消せるか」を考えます。
しかし思想史の中では、不安は一種類の感情として扱われてきたわけではありません。未来について心が作る苦しみ、自由と可能性の感覚、自分自身から逃げるための気晴らし、外的出来事へ加えた判断、今日扱える問題を越えて広がる心配。
このページでは、セネカ、キルケゴール、パスカル、マルクス・アウレリウス、デール・カーネギーから、不安とどう付き合うかを比較します。
セネカ――出来事より、未来について作った苦しみに注意する
セネカを含むストア派は、自分で完全には支配できない外的出来事と、それに対する自分の判断や態度を区別しました。
この考え方は「悪いことは起きないと思え」という楽観論ではありません。
まだ起きていない未来を何度も想像し、そのたびに現在で苦しむとき、実際の出来事とは別の苦しみを自分で追加している可能性があります。
セネカの「期待」の問題もここにつながります。未来に心を預けすぎると、まだ存在していない時間によって現在を失うからです。
キルケゴール――不安は「可能性がある」ことと結びつく
キルケゴールの『不安の概念』では、不安は単なる恐怖とは異なるものとして考えられます。
恐怖には「何が怖いのか」という対象を比較的特定できます。しかし不安は、人間が自由であり、複数の可能性を持つことそのものと結びつきます。
選べるということは、別の選択もできたということです。未来が決まっていないからこそ、可能性は開かれ、不安も生じます。
この視点では、不安を完全に消すことは、自由や可能性まで消すことになりかねません。問題は、不安があることより、その可能性をどのような自己として引き受けるかです。
パスカル――不安から逃げるため、人は忙しくなる
パスカルは『パンセ』で「divertissement(気晴らし)」を分析しました。
仕事、狩り、賭け、社交など、それ自体が悪いのではありません。問題は、自分の有限性、死、空虚さ、不安と向き合わずに済むよう、絶えず何かへ注意を逸らしている可能性です。
「忙しいから不安ではない」のではなく、不安を感じないために忙しくしていることもあり得ます。
この点でパスカルは、行動すれば不安が解消するという単純な処方箋にブレーキをかけます。
マルクス・アウレリウス――自分が付け加えた判断を調べる
マルクス・アウレリウスの『自省録』では、外から来る出来事と、それについて自分が下す判断を分ける訓練が繰り返されます。
たとえば「これは耐えられない」「これは不幸だ」という評価は、出来事そのものと同一ではありません。
これは感情を否定するための技術ではなく、自分はいま何を事実として受け取り、何を自分の評価として追加したのかを点検する方法です。
不安が起きたとき、そのすべてを「現実」と呼ばず、現実と解釈の境界を見ることができます。
デール・カーネギー――不安を「今日扱える大きさ」にする
デール・カーネギーの『How to Stop Worrying and Start Living』では、不安に対するもっと実用的な技法が集められています。
代表的なのが “day-tight compartments”――一日単位の区画で生きるという考えです。
未来を一切考えないという意味ではありません。未来全体を今日の心の中へ持ち込み、何年分もの問題を一度に苦しむことをやめ、今日実際に扱える問題へ戻すという方法です。
セネカが未来の想像と現在を分け、マルクスが出来事と判断を分けるのに対し、カーネギーは問題を時間の単位で切り分けます。
不安に対する五つの異なる態度
5人は、同じことを言っているわけではありません。
セネカは、未来への予期が現在の苦しみを増やすことを見る。キルケゴールは、不安を自由と可能性の徴として読む。パスカルは、不安から逃れるために人が気晴らしへ走る構造を見る。マルクス・アウレリウスは、出来事と判断を分ける。カーネギーは、問題を今日行動できる大きさへ戻す。
ここから見えるのは、不安は「消す/我慢する」の二択ではないということです。
不安が教えているものを見分ける
ある不安は、まだ起きていない未来を繰り返し想像した結果かもしれません。
ある不安は、重要な選択肢があるから生じているかもしれません。
ある不安は、自分が避け続けている問題の存在を示しているかもしれません。
ある不安は、今日ひとつ行動すれば小さくなるかもしれません。
同じ「不安」という語でも、その正体が違えば、向き合い方も変わります。
別の問いへ進む
未来と現在の問題をさらに考えるなら、「時間とは何か」へ。
自分で支配できるものを考えるなら、「自由とは何か」へ。
死を意識することで不安がどう変わるかは、「死とは何か」へつながります。