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運命とは何か|エピクテトス、マキャヴェッリ、モンテーニュ、ユング、ソローから読む

「運命」は、全部決まっているという意味だけではない

運命という言葉を聞くと、「自分では変えられないもの」「最初から決まっている未来」を想像しがちです。

しかし思想家や作家を横断すると、運命は一つの意味にはまとまりません。

エピクテトスは、自分の力にあるものとないものを分けます。マキャヴェッリは、運命の力を認めながら、平穏なうちに堤防を築けと考えます。モンテーニュは、運命が材料を与えても、幸福と不幸の経験はそれだけで決まらないと書きます。ユングでは、意識されない内的な状況が外側で「運命」として現れることがあります。ソローは、自分について抱く考えが運命を「決める、いやむしろ示す」と書きました。

運命を「外から来るもの」と「自分の側で作られるもの」に分けると、五人の違いが見えやすくなります。

エピクテトス――運命より先に「自分の力の内」を分ける

「与えられたものを受けよ、活かせ」として流通する言葉は、エピクテトス『語録』と『提要』の思想を短くまとめたものです。

彼の出発点は、あるものは自分の力の内にあり、あるものはそうではない、という区別です。

判断、欲求、選択は自分に委ねられている。一方、他人の反応、天候、身体のすべて、外的な結果は、自分だけでは完全に支配できません。

ここで「運命を受け入れる」は何もしないことではありません。自分に委ねられた判断と行為は引き受け、そうでないものまで支配しようとしないという態度です。

運命に従うか逆らうかという二択より先に、「そもそも何が自分の領域なのか」を分ける。ストア派の運命論は、その境界から始まります。

マキャヴェッリ――運命は強い。でも、洪水の前なら備えられる

『君主論』第25章で、マキャヴェッリは運命を荒れ狂う川へたとえます。

洪水が起きれば、木も建物も流され、人は逃げるしかありません。しかし川が静かな時期なら、堤防や防壁を築くことができます。

そこで彼は、運命が人間の行為の半分を支配し、残りを人間に委ねると書きます。

これは「人生は運50%、努力50%」という計算ではありません。運命の力は大きいが、自由意志を無意味にはしないという議論です。

しかも大切なのは、危機が来てから気合で何とかすることではなく、まだ選択肢があるうちに備えることです。運命に対抗する力は、非常時より平時に作られます。

モンテーニュ――運命は「材料」を与えるが、経験のすべては決めない

「運命は幸福も不幸も作らず、その材料と種を与える」は、『エセー』に確認できる真正な一節です。

運命が外から出来事を差し出す。それを魂が自分の状態に応じて扱う。モンテーニュは、外的な出来事と、それが自分にとってどのような経験になるかを分けます。

ただし「全部気の持ちよう」という意味ではありません。病気や貧困、喪失といった現実を、心の問題だけに還元しているわけではない。

それでも、外から与えられた条件と、自分の生の全体は同じではないという余地を残します。

モンテーニュ――世界を変えられないなら、自分と世界の関係を調整する

「出来事を思い通りにできないので、私は自分自身を調整する」という文章も『エセー』にあります。

モンテーニュは、自分には運命を巧みに避けたり、すべてを慎重な計算で望む方向へ導いたりする力がほとんどない、と率直に認めます。

そのうえで、出来事が自分に合わせないなら、自分の側を出来事へ合わせようとします。

これは敗北ではありません。変えられない世界に自分の全エネルギーを奪われず、世界との関係を調整することで自由を残すという考えです。

ユング――外側の「運命」に、自分の無意識が混ざることがある

「無意識を意識化しなければ、それを運命と呼ぶ」という有名な短句は、ユング本人の逐語引用ではありません。

近い原典は1951年の『Aion』で、ユングは「内的な状況が意識化されないと、それは外側で運命として起こる」という心理学上の規則を書いています。

自分が認めていない葛藤を他人や社会へ投影すれば、本人には「外から同じ問題が襲ってくる」ように見えることがあります。

ここでの運命は、未来を決める超自然的な力ではなく、自分に見えていない内面が、世界との関係へ入り込んだ結果として現れます。

もちろん、すべての不幸が本人の無意識から生まれるという意味ではありません。外的な問題と、自分がそこへ持ち込む解釈を区別するための視点です。

ソロー――自分についての思い込みが、運命を「示す」

『ウォールデン』の “What a man thinks of himself…” は、「自分をどう思うかが運命を決める」という形で知られています。

ただしソローは、determines と書いた直後に or rather indicates――「決定する、いや、むしろ示す」と言い直します。

この細部を落とすと、「ポジティブに考えれば運命を変えられる」という成功哲学になります。

原典ではむしろ、自分について何を当然だと思っているかが、すでに自分の選択肢や生き方へ表れているという問題です。

世間の評価だけでなく、自分自身についての固定観念も人を縛る。その意味で、運命の一部は「未来」より先に、自分の現在の自己像へ現れています。

夏目漱石『虞美人草』――「運命」を考え続けるより、人間らしく働く

『虞美人草』の宗近君は、甲野さんから「日本の運命を考えたことがあるか」と問われ、「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ」と答えます。

これは夏目漱石本人の独立した人生訓ではなく、行動的な宗近君という登場人物の台詞です。直後には「日露戦争を見ろ」と続き、国家や歴史の将来を考える甲野さんとの人物対比の中に置かれています。

それでも他の思想と並べると面白い違いが見えます。マキャヴェッリが運命へ備える方法を論じ、エピクテトスが自分の力の内外を分けるのに対し、宗近君は巨大な運命を思索し続けるより、自分が人間としてすることへ戻るという文学的な態度を示します。

作者本人の結論としてではなく、「運命に対する一人の人物の声」として読むことで、テーマに別の角度が加わります。漱石の小説と書簡に現れる複数の声は夏目漱石人物ページで比較できます。

運命に対する五つの異なる態度

エピクテトスは、自分の力の内と外を分けます。マキャヴェッリは、運命の力を認めながら、平時の備えに人間の自由を置きます。モンテーニュは、外から来る材料と、それをどう経験するかを分けます。ユングは、無意識の葛藤が外的運命のように見える可能性を指摘します。ソローは、自分についての前提が運命を「示す」と考えます。

五人は同じことを言っているわけではありません。

しかし共通するのは、運命という言葉を使った瞬間に、自分の行為をゼロにしないことです。

「運命だから仕方がない」と「全部自分次第」の間

運命論には二つの極端があります。

一つは「全部決まっているのだから、何をしても意味がない」。もう一つは「すべて自分次第なのだから、結果が悪いのは本人の責任だ」です。

今回の思想家たちは、そのどちらにも単純には寄りません。

自分では変えられない条件がある。それでも備え、判断し、解釈し、自分の構えを調整できる余地もある。

自由とは、運命が存在しないことではなく、運命の中でどこに自分の行為を置けるかを見つけることだと読むこともできます。

別の問いへ進む

自分で支配できる範囲をさらに考えるなら、「自由とは何か」へ。

未来への予期と心配を考えるなら、「不安とは何か」へ。

運命が幸福とどう関係するかは、「幸福とは何か」へつながります。

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